奄美大島が自分のルーツだと知ったのは、34歳になったある夏の日だった。私の両親は私が母のお腹にいる時に別居状態となり、生まれて1年半の頃に離婚するまで三人で暮らすことはなかった。物心ついた時には養父母である河瀬家の老夫婦が私の家族だった。14歳の時に養父が他界してからは、養母と二人暮らしをしていた。
あの夏、母は再婚をして別に家族があり、実の祖母は京都でひとり暮らしをしていた。養母と私が暮らす家に突然母がやってきて、今から旅行に行くよと告げた。特に用事もなかったので、養母と私は母の運転する車に乗り込むと、そこには実の祖母もいた。四人の不思議な関係の女たちは一路、琵琶湖の畔(ほとり)にある宿へ向かう。大浴場で背中を流し合う三人の姿を微笑ましく見ていた。様々な人生経験を経て、一堂に会したあの日。その光景を今でもありありと思い出せる。
気分が良かったからだろうか。その夜の食事中に、祖母がふっと漏らした言葉。それが冒頭にある「奄美大島」のことだった。懐かしそうに昔の話をする祖母。私のルーツが奄美であることの不思議。海沿いの集落には、まだ親戚がいるのだと教えてくれた。
血縁関係にある人との縁が薄い私にとって、行ったこともない奄美大島という土地をGoogleマップでドキドキしながら調べたあの夏。なぜ私が寒さにめっぽう弱いのか。暑い太陽が大好きなのか。お祭りや行事ごとにワクワクすることや、隣近所の人たちと家族同様に仲良くしたくなること。その全てが奄美大島をルーツに持つことと、深く繋(つな)がっているような気がして、心強かった。行ったことのない島。そこに行ってみたいと願いながら、日々の仕事に忙殺され、結局それから5年ほどの歳月が過ぎてやっと私は奄美の地に降り立つことができた。
あらかじめ調べていた自分の戸籍から空港近くの用安集落がご先祖さまの暮らした土地であることを知った。その場所を訪れた日はあいにくの雨。緊張した心を振り払うように、車のワイパーが一定のリズムで雨を拭っていた。浜昼顔のピンクの花が白砂のあたりに蔓延(はびこ)っていた。海のない奈良に生まれ育った私にとって、寄せては返す波の音は遠い記憶の断片と出逢うような時間だった。
その後、3年ほどの歳月を経て、「2つ目の窓」という作品を完成させた。養母である河瀬宇乃が他界したことをきっかけに創りあげたこの作品は世界最高峰のカンヌ映画祭にも出品されるものとなった。
奄美大島にはユタ神様という神事を司る人が居て、神様の言葉を人々に伝えるという風習がある。私の高祖母がユタであったと教えてもらった。会ったことのない高祖母が私に大切なことを教えてくれているのかもしれない。
自然界の様々なものは常に何かのメッセージを人間に伝えている。その感覚を映画に変えて世界の人々に伝えてゆくことが私の役割だと今、感じている。
(映画作家)