米艦船に「デェージナトン」 池原盛憲さん(5) 山の戦争<読者と刻む沖縄戦>


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現在の楚辺集落沖に広がる海

 1945年になると米軍の空襲は一層激しくなります。池原盛憲さん(88)=那覇市=が暮らしていた読谷村楚辺にも危機が迫っていました。

 《年が明けて昭和20年、自分は小学校を無事卒業できるか、また旧正月もできるか不安だった。3月になると勢いを増した米軍は戦闘機の大軍を動員して襲いかかってきた。》

 屋敷に防空壕がありましたが、80歳の祖父・松さんは「貧弱な防空壕では耐えられない」と心配します。

 3月末、米軍の艦船が姿を見せます。松さんは驚いて畑から家に戻りました。

 《血相を帯びて帰宅した祖父は「デェージナトン、海はアメリカの軍艦で埋まっている」と言った。まさかと自分も急ぎ外に出て、慶良間を遠望すると、慶良間と楚辺の間は黒い軍艦の群れであふれていた。》

 池原さんら楚辺住民は国頭村への疎開を命じられます。「むらやー(村屋、公民館)から国頭に行きなさいと指示があった」と池原さんは語ります。「読谷村史」によると、楚辺に駐屯している日本軍の高射砲部隊から3月25日に避難命令が出ています。

 楚辺住民の避難指定先は国頭村奥間でした。恩納村に避難した住民もいます。楚辺集落は戦禍にのみ込まれていきました。