<未来に伝える沖縄戦>軍国主義教育に自由奪われ 潮平保子さん


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 潮平保子さん(94)=西原町=は八重山高等女学校の1期生で、戦時中に従軍看護婦として船浮陸軍病院に動員され、マラリアによる高熱に苦しむ兵士らの看護にあたりました。戦争で学びの機会を奪われ、知りたかった事実を隠された同年代の頃の潮平さんの体験を、西原中学校3年の吉本梨花さん(14)と仲村風秋さん(14)が聞きました。

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戦争体験を語る潮平保子さん=15日、西原町翁長(喜瀬守昭撮影)

 《潮平保子さん(94)(旧姓浦崎)は1929年5月7日、石垣町(現石垣市)に5人姉妹の次女として生まれました。石垣国民学校(5年生までは尋常小学校、現在の石垣小学校)6年になると、沖縄本島への女学校進学を目指します》

 4年生の時にわら人形が教室に置かれ、竹やりで突きなさいと言われました。私は人形といえども突くことができず、泣いて突きませんでした。そのような教育がたたき込まれ、大人になるまで胸に残りました。教育を間違ってはいけません。

 6年生になると一高女(県立第一高等女学校)を受験するためのクラスに入り、夜は先生の家へ行って勉強しました。しかし私たちがいざ、沖縄本島に船で試験を受けに行くとなった時、米軍の潜水艦が出没したために客船が通せなくなり、私たちの学年から本島の学校に行けなくなりました。「希望を持って勉強していたのに」と私たちは泣きました。

 とてもがっかりしているところに、知識人の方たちが有志を募って女学校・中学校を設立しようという運動が始まりました。おかげで私たちは八重山高等女学校の1期生になりました。

 4歳年上の姉は那覇の女学校を卒業して石垣に帰ってきていました。私と1歳違いのいとこは、那覇の女学校に行ったばかりに、ひめゆり学徒隊として亡くなりました。

※続きは6月21日付紙面をご覧ください。