あたふたと馬車で国頭へ 池原盛憲さん(6) 山の戦争<読者と刻む沖縄戦>


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現在の読谷村楚辺。旧集落は米軍が接収し、トリイ通信施設となった

 池原盛憲さん(88)=那覇市=は読谷村楚辺から指定疎開先の国頭村奥間へ向かいます。父の蒲蔵さんは防衛隊に招集されました。首里の県立沖縄工業学校に通っていた長兄の盛繁さんも通信隊員として戦場に動員されます。

 奥間に向かったのは盛憲さん、母のミツさん、祖父の松さん、次兄の盛福さん、姉のトミさん、妹の八重子さん、前年に生まれた弟の盛喜さんです。馬車に食料や衣類を詰め込み、あたふたと出発しました。

 飼っていたメジロを避難させるため風呂敷に包もうとした池原さんは「こんな非常時に」と松さんに叱られます。

 《やんばるの避難所行きはできるだけ昼を避けて夕方から出発し、夜通し歩き続けた。恩納村までは昼間は危ないと警戒していたが、やんばるに入ったので昼もなんとか安全だと、祖父が馬車で出発しようと試みた。たちまちグラマン機から機銃掃射を浴びせられ、急いで馬車を林の中に突っ込み、みんなは福木の下に潜り込んで難を逃れ、命拾いをした。》

 「楚辺誌」戦争編に載っている母ミツさんの証言によると家族が楚辺を出たのは1945年3月末。恩納村安富祖で一時避難し、奥間にたどり着きます。「今考えたら、よくもあれだけ歩けたなあと思います」と語っています。