小さなイモで命つなぐ 池原盛憲さん(7) 山の戦争<読者と刻む沖縄戦>


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現在の国頭村奥間の集落

 米軍上陸直前の1945年3月末、池原盛憲さん(88)=那覇市=の一家7人は読谷村楚辺から国頭村奥間に疎開します。

 《途中、名護に差しかかった。他島(たしま)からの避難民でざわついているようだった。ここで小休止した。子どもながらも、よく頑張ったと思う。歩き疲れたら馬車に乗り、姉妹と交代しながら知らないやんばる道を敵の弾を避けながら、ようやく目的地の国頭村の奥間にたどり着いた。》

 一足先に楚辺から奥間に着いていた知人の家で泊まった後、一家は山中の避難小屋に移動します。米兵を逃れ、食料探しに苦しむ避難生活が始まります。

 「沖縄県史」各論編6(沖縄戦)によると、県がまとめた中南部住民の北部疎開計画における国頭村の受け入れ人数は約2万2千人です。「国頭村史」によると3月21日の時点で約5千人が国頭村に入ります。

 国頭村民は川の上流に沿って避難小屋を建て疎開住民を受け入れますが、たちまち食料不足に陥ります。「国頭村史」はこう書きます。「これらの疎開者によって、国頭村民1万人の1年間の食糧が2カ月間で食いつぶされた」

 池原さん一家は、地元の畑にあった掘り残しの小さなイモを調達し、命をつなぎます。