「競技場は戦場に通ず」明治神宮大会 1939年、バスケ選手団初参加<W杯沖縄開催 バスケ王国の系譜>3


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1929年に撮影された女子師範・一高女の運動場。右手にバスケットボールリングが確認できる(参照「ひめゆり 女師・一高女写真集」沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会出版)

 スポーツと国防の結びつきを象徴的に示す事例が、1924年から始まった明治神宮競技大会だ。戦局の深まりが大会方針に端的に現れている。39年の第10回明治神宮国民体育大会は「東亜新秩序建設の礎石たるの覚悟を誓い奉り、真に国民精神総動員の具現たらしむる」とあり、41年の第12回大会は「競技場は戦場に通ず」とされた。

明治神宮大会

 明治神宮競技大会が始まった24年当初、遠征には莫大な費用がかかった。1人のみの出場だった県勢選手は新聞記者を装い、船や鉄道のフリーパスを使ったほどだ。だが政府主催となった第10回大会は、参加者が一挙に増えて100人を超えた。バスケ選手団も第10回大会から初めて加わった。

 琉球新報は第10回大会を「神宮大会へ一番乗り 南国の精鋭沖縄代表」との見出しで東京入りする県勢を伝えている。現地では「ちばって負かさや(がんばって負かさう)」「いじんじれー(元気でやれ)」と沖縄の言葉が飛び、「早くも大会を呑むの気概」だったという。

 バスケは県立第一高等女学校の生徒が10月30日に出場し、20―35で栃木代表に初戦敗退した。一方で県勢は、この大会から採用された国防競技で好成績を残した。手榴弾投てき突撃は府県対抗で県立第二中学校が優勝。障害通過競争は種目別決勝で県立第三中学校が頂点に立った。監督は「1位になるとは夢にも思ひませんでした。更に練習をつづけて沖縄の名を全国に響かせる」と意気揚々と語る。

 バスケ選手団は41年の第12回大会まで派遣されたが、明治神宮国民錬成大会に名前を変えた42年の第13回は、全種目で県勢が棄権した。悪天候で船の出港が遅れたことに加え、米軍潜水艦の警戒警報が出たことにより奄美大島に避難したためだ。

県立第一高等女学校籠球部の写真=1941年(ひめゆり平和祈念資料館提供)

運動場に戦時色

 ひめゆり平和祈念資料館が所蔵する県立第一高等女学校バスケットボール部の写真がある。撮影は太平洋戦争が始まる41年だ。

 鉄道の運搬に軍需物資が優先されるようになると、全国大会は消滅した。43年の沖縄総合錬成大会は奥武山公園で国防競技が盛んに行われた。一方、バスケットボールなどの球技は姿を消した。44年に入ると陣地構築といった動員作業が増えたため、女学校生徒は部活動もできなくなった。

 女学校時代の思い出を集め、37年に出版された「姫百合のかおり」には、時局の移り変わりを示唆する記述がある。

 33年に沖縄県女子師範学校を卒業した後、教員になった奥平八重はふと手に取った琉球新報に目をとめた。よく見ると、学生時代に過ごした運動場が写っていた。「テニスに、バスケットに、體操の行進に、時には夕食後の散歩に」友人たちと過ごした場所だった。

 だが記事では、身分の高い人を迎えるための予行演習に運動場が使われていた。奥平は新入生だった29年ごろ、「応援歌を張り上げて女師一高女の気勢を見せた事もあった」と思い返す。「あの精神がスポーツ精神とも云われたのかと今にして思えばおかしくなる。あの頃はとてもスポーツが盛んだつた」と懐かしんだ。 

(敬称略、新聞表記はママ)

(古川峻)
 (随時掲載)