山奥に避難 深刻な飢え 池原盛憲さん(9) 山の戦争<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 熊谷 樹
大湿帯に向かう山道

 国頭村奥間の山中にも米兵がやって来ました。池原盛憲さん(88)=那覇市=の家族ら、読谷村楚辺から疎開してきた住民は新たな避難先を探します。  

《米兵が去った後、山に逃げていた人たちが戻って来た。「もうここでは命が危ない」とみんな言い出した。楚辺出身の青年が逃げる途中、銃で撃たれて死んだという報告があった。もっと山奥へ行くべきだとの意見で一致したと母が言った。 祖父は高齢だし、山歩きを心配した母は親戚の方たちと相談した。道に迷うことなく山を越えられるよう、案内料が少々高くてもいいから案内人を付けるべきだということになった。》

 池原さんは「戦争中ですが、お金を取って道案内をする人がいました。道を案内してもらうには手間賃を払わなければなりません」と語ります。  「楚辺誌」戦争編に収録されている母ミツさんの証言によると、国頭村奥間を出た家族は東村有銘や川田、平良を経て、羽地村(現名護市)源河の大湿帯(おおしったい)に着いたようです。

 《やっとの思いで大湿帯に着いたものの、多くの避難民が押し掛けて、住む場所が見つからない。やむなく豚小屋にわが家族は収まった。これで最低限、雨露をしのいだ。》

 家族は深刻な飢えに陥りました。食料調達は次兄の盛福さんの役目でした。「次男が苦労したおかげで家族は助かりました」と池原さんは語ります。