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国頭村奥間の避難小屋から羽地村(現名護市)源河の大湿帯(おおしったい)に移動した池原盛憲さん(88)=那覇市=の家族は飢えに苦しみます。80代の祖父の松さん、前年に生まれた弟の盛喜さんは衰弱し、1945年5月末ごろに命を落とします。
《大湿帯にたどり着くまでに深い山道を上り下りした。その道中で疲労が出た祖父は足が腫れ上がり、寝たきりになった。末弟も母の乳が上がり、やせ細ってとうとう餓死してしまった。後を追うように祖父も他界した。家族みんな悲しんだ。特に母は気の毒だった。》
「弟はやせて小さくなっていました。母も憔悴してしまってね。あの時は惨めでした」と池原さんは語ります。家族は2人を山中で埋葬します。
山中での飢えは続きます。次兄の盛福さんは遠方まで食料探しに行きました。
《小さな芋でも掘ってくるかと待っていたが、芋の葉だけ摘んできた。梅雨に入り、食料集めも困難になった。桑の若い葉やツワブキの葉もゆでて食べた。ネズミ、バッタ、チンナン(カタツムリ)など、かたっぱしから何でも食べた。》
その頃、米軍の偵察機は上空からビラをまきました。投降勧告です。「もう戦争は負けた。山を下りよう」。山中にいた読谷村楚辺の避難民は下山を決断します。大湿帯から源河川に沿って山を下り、羽地村の仲尾次に向かいます。