収容地区でも飢え続く 池原盛憲さん(11) 山の戦争<読者と刻む沖縄戦>


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現在の名護市田井等の集落

 米軍の投降勧告のビラを見て、羽地村(現名護市)の源河川上流にある大湿帯(おおしったい)から仲尾次に移った池原盛憲さん(88)=那覇市=の家族は田井等収容地区で暮らします。

 「楚辺誌」戦争編にある母ミツさんの証言によると大湿帯にやってきた兵隊の投降勧告に応じたといいます。山中にいた楚辺の避難民が収容地区に入った時期はまちまちです。池原さんが山を下りたのは1945年6月末以降のことです。

 《テント小屋に着くと大勢の人たちが生活していた。そこは小さな自治会みたいな村で、村長らしき人の案内で先に入った家族と相部屋で入居した。》

 池原さんは収容地区にいる大勢の人を見て、戦争が終わったことをしみじみと実感しました。親を失った子どもたちもいました。「収容所には孤児もいました。米兵は子どもたちを集め、孤児院を設けました」と池原さんは語ります。食料は足りず、飢えは続いていました。マラリアにもかかります。

 《米軍の管理下にあったので少量の配給も与えられた。十分ではなく、命をつなぐのがやっとといった状況だった。近くの川でターイユ(フナ)や小エビを捕って夕食の足しにした。》

 その後、防衛隊に取られていた父の蒲造さんが石川から迎えに来ます。蒲造さんは島尻で米軍の捕虜になっていました。一家は田井等収容地区で3カ月過ごした後、10月に石川の収容地区に移動します。