読谷村楚辺の住民が故郷に戻ったのは1947年4月のことです。楚辺を離れて2年。池原盛憲さん(88)=那覇市=の一家は生活の立て直しに懸命でした。県立工業学校に通い、通信隊に動員された長兄の盛繁さんは米軍の捕虜となり、ハワイや米国の収容所に送られた後、帰郷します。
少しずつ落ち着きを取り戻してきた楚辺住民の暮らしを、今度は米軍が奪います。52年、基地建設のため集落を接収したのです。住民は現在の場所に新たな集落を築きました。昨年、集落移設から70年の節目を迎えました。かつての集落はトリイ通信施設の中にあります。
「針(はい)ぬ穴(みー)から命(ぬち)ふきたん」。砲撃と飢え、そしてマラリア。針の穴をくぐり抜けるように困難をくぐり抜け、生き延びることができた。池原さんは自身の体験をこう振り返ります。そして四つの「サン」を挙げます。
《戦争体験は、一にヤーサン(ひもじい)、二にヒーサン(寒い)、三にシカラーサン(さみしい)、四にウィーゴーサン(かゆい)だった》
やんばるの山で飢えに苦しみ、寒くてさみしい思い出があります。シラミやノミの大発生には悩まされました。
池原さんは自宅庭にツワブキを植えています。
「山の中でチーパッパー(ツワブキ)を食べて生き延びることができました。感謝を込めて今も植えています」と池原さんは語ります。
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池原盛憲さんの体験は今回で終わります。次回から山田春子さんです。