朝鮮半島で教員勤めた小橋川氏ら協会設立 戦後バスケ復興の礎に <W杯沖縄開催 バスケ王国の系譜>5


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バスケットが盛んだった京城(現ソウル)の景福中学校時代の小橋川寛(左)と長男の慧=1936年(小橋川慧さん提供)

 1927年から終戦まで、バスケットボールが盛んな朝鮮半島で学校体育の教員を務めた小橋川寛。戦後、故郷を思い苦労の末に船で中城村久場崎に引き揚げたのは46年12月だった。生まれ育った中城村泊に気づかないままトラックで通り過ぎてしまうほど、艦砲射撃で変わり果てていた。沖縄のスポーツを復興させる―。これが小橋川の仕事になった。
 

使命

 小橋川は回想記に「体育、スポーツの担当者として、その使命遂行のためには、是非環境(運動場、体育館、その他施設用具等)の整備が前提である」と信条を述べている。

 47年にコザ高に赴任し、第1回全島大会で優勝に導く。翌年にコザ高から独立した野嵩高(現普天間高)に転勤し、ここでも全島大会を制覇した。勝因の一つに、学校のグラウンド設置が学生の意欲に結びついたことを挙げている。

 プレハブ校舎のコザ高では敷地にバスケコートなどを整備した。野嵩高では陸上競技場の設置に取りかかり「夢の実現に着手した」(回想記)。現場監督として県などとの折衝や文書手続き、人材集めなどに奔走したという。

全島高校バスケットボール大会で優勝した野嵩高校のメンバーと小橋川寛コーチ(中段左)=1948年、石川高校(提供)

 50年に琉球大学に赴任した。「希望に燃える学徒のために、憩の場、余暇活動の場が必要である」(回想記)と考え、草木が生い茂る学内を整地した。推定200キロの不発弾を掘り出して驚くこともあった。

 琉球大学の「10周年記念誌」に当時学生だった松村圭三の回想がある。開学2年間は毎日、放課後に全学生で学内の整備に当たっていた。「K教授(小橋川)方も卒先垂範されるのですから、勤労精神は十二分にたたきこまれました」。鎌を手に学生と汗を流していた姿が浮かぶ。

 体育科の新設のほか、62年には体育館と陸上競技場が完成した。「待望のスポーツセンター、人間づくりの場」(回想記)の完成に喜びはひとしおだった。
 

おやじ

 65年に琉大バスケ部に入った仲松鈴子は(76)は「同郷だったこともあり、とてもかわいがってもらった」と振り返る。バスケの指導はしていなかったが、教授にしては珍しく、気さくに「元気か」「がんばってるか」と声をかけていたという。体育科の学生からは「おやじ」と呼ばれた。仲松は「なぜ、あんなに慕われていたのか不思議だ。くとぅば、じんじけー(言葉をお金のように大事に使う)の人だった」と語る。

 53年に小橋川が中心となって県バスケ協会を設立し、人材も集めた。「沖縄県バスケットボール協会 40年のあゆみ」によると、県協会4代会長の當眞哲雄は全国大会に派遣された経験があるため「今、日本のバスケットを見てきたのはお前だけだ」と陸上協会から引き抜かれている。

 小橋川はバスケ協会長を務める傍ら、体操協会などの会長も歴任した。71年から県体育協会会長に就き、さまざまな競技の普及発展に努めた。82年、その功績をたたえて高校バスケの県大会に小橋川寛杯争奪選手権が加わった。退職後の晩年は、たまに大会に姿を現して生徒がプレーする姿をじっと見ていた。

 長男でカナダ・ウィンザー大名誉教授の慧(90)は「仕事について多く語る人ではなかったが、体育学科の学生たちに慕われるのを見たり、韓国の教え子から招待されたニュースに接したりした。“愚直”な生き方をした父が報われたことがうれしかった」と振り返った。小橋川は94年、91歳で亡くなった。

 (敬称略)
 (取材協力・小橋川慧ウィンザー大名誉教授、小橋川久光琉球大名誉教授、張本文昭県立芸大教授)
 (古川峻)