【浦添】浦添市は慰霊の日の6月23日、平和講演会「戦場になった浦添」を市仲間のアイム・ユニバースてだこホール市民交流室で開いた。「浦添市史第五巻資料編4 戦争体験記録」の編集に携わった沖縄国際大学の石原昌家名誉教授が講師を務めた。市史編さん作業を進める中で印象に残った証言者の体験談を通して、沖縄戦を振り返りながら、戦争の気配が迫る現状に警鐘を鳴らした。
石原さんは、期間ごとに死者が集中している地域が分かる市史収録の地図を示した。1945年4月1日の沖縄本島への米軍上陸から同年5月末までは浦添に、日本軍第32軍司令部が首里から南部の喜屋武方面に撤退を始めた翌日の5月28日から6月23日までは南部に、それぞれ集中していた。その上で「日本軍が住民に命じたのは、軍も官も民も共生共死ということ。迫り来る米軍に追われ、前には絶対投降を許さない日本軍がいた。『前門の虎、後門の狼』という絶望的な状況に沖縄の住民はなった」とした。
石原さんは、牧港の又吉栄長さんの証言を紹介した。又吉さんの言葉「戦争は平和な時に準備が進む」を引き、熊本から来た第6師団が1913年から14年にかけて実施した軍事演習に触れた。嘉数高台や浦添ようどれの間で敵を迎え撃つ演習のシナリオが、31年後の沖縄戦でほぼ現実化したと指摘した。軍事演習の先に戦争が待つ危うさがあると説いた。
体験者への聞き取りをする中で、壕(ごう)内で生まれて亡くなった人などは届け出もされなかったことから戦後の戸籍簿に反映されず、公的な記録から抜け落ちている戦没者の存在に気付いたことも振り返った。このような戦没者も数に含める考えは平和の礎の設置にも生かし、「―の子」との表記で刻銘されたという。
講演前には、市中学生ピースメッセンジャーの生徒たちが平和メッセージを朗読した。
松本哲治市長はあいさつで、父親が家族で「集団自決」(強制集団死)をした中で、ただ1人の生き残りであることに触れた。「父のおかげで今の私がある。78年前に信じられないような地獄の中で、多くの方が命を、全てを失った。そこから悲しみを越えて、復興してきた現在に、私たちがいるということを肝に銘じていきたい」と語った。
(藤村謙吾)