久志でマラリアに 山田春子さん(5) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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収容所が置かれた南城市玉城の百名

 山田春子さん(94)=中城村=は1945年6月下旬、摩文仁で米兵に捕らわれ、家族と共に玉城村(現南城市玉城)百名の収容所に送られます。

 《私たち家族は多くの避難民と共に百名収容所に連れて行かれた。その数日後から、何カ所かの収容所を転々とした。約一年の時を経て、郷里に移り住むことができた。》

 百名収容所があったのは現在の南城市立百名小学校の一帯です。「南城市の沖縄戦」(資料編)によると米軍が収容所を開設したのは45年6月5日です。終戦直後には6千人を収容しました。警察署や病院、孤児院などが設けられました。

 山田さん家族はその後、馬天港からLST(戦車揚陸艦)に乗せられ、久志村(現名護市)の収容地区に運ばれます。

 砂地にテントを張っただけの収容所です。「久志ぐゎー(現名護市久志)では1カ月くらい。その後、瀬嵩にも行きました。久志ではマラリアにかかりました」と山田さんは語ります。

 収容地区でも食料は不足していました。「何を食べたか覚えていないけれど、米軍からちょっとした配給はありました」

 「中城村の沖縄戦」(資料編)によると瀬嵩の収容地区にいた中城村の住民は46年1月下旬から村の東海岸沿いにある当間に戻り、復興に取り組みます。山田さん家族もこの地で戦後の暮らしを立て直します。