「“沖縄モデル”全国で」川淵氏・三屋JBA会長インタビュー バスケW杯、沖縄開催への舞台裏


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 bjリーグとNBLに分離していたバスケット国内リーグの問題解決に尽力した川淵三郎氏。FIBAワールドカップ(W杯)の招致活動について、「(新リーグ立ち上げを成功させたことで)W杯を日本で開催すべきだということにつながった」と推し量る。当時のFIBAには、故バウマン事務総長とワイス財務部長がいた。川淵氏によると、「2人の意向が一番初めに影響を与える」というほどの実力者だ。川淵氏はこの2人と信頼関係を築いていた。

(左から)インタビューに答える日本トップリーグ連携機構の川淵三郎会長=6月22日、東京都内。日本バスケットボール協会の三屋裕子会長=6月21日、東京都内(斎藤学撮影)

 2015年、川淵氏がチェアマンを務めるタスクフォースがJBAの改革を進める。そのリーダーシップを評価したFIBAの要望で、川淵氏は同年5月にJBA会長に就任する。川淵氏はFIBAとの交渉で、譲れないところは絶対に譲らなかったという。FIBAから要望があったJBAの理事の数を減少させることは受け入れる一方、新リーグに参入するチーム数の減少は拒否。「お互いに信頼し合ってたから」と振り返る。

 川淵氏から会長職を引き継ぎ、三屋裕子氏が招致活動を続ていく。招致は17年に本格的に始まった。夏にはFIBAの視察団に「ここにできる予定です」と、まだ草っ原だった沖縄アリーナの建設予定地を案内した。

 同年12月、スイス・ジュネーブで開かれた最終プレゼンテーションには、手を挙げたフィリピン、インドネシアとスカーフやネクタイの色を合わせて臨んだ。三屋氏は「飛行機の中で寝ずに英語を練習した」と笑う。沖縄アリーナのことなど「沖縄をいっぱいアピールした」と言い、最終的に3カ国が開催地として読み上げられた。

 三屋氏によると、沖縄の開催条件は「アリーナがちゃんとできること」とされた。その後、沖縄アリーナは21年に完成。三屋氏は「バスケを通して子どもたちに夢を与えることができる。子どもに何を残すことができるかが大会のレガシーになる。アリーナで地元が活性化し、ビジネスが生まれる“沖縄モデル”がロールモデルとして全国で展開してほしい」と展望を語る。

 川淵氏は「バスケットをエンジョイしながら、町やチームへの愛情を持った仲間が多く集まることが、町の発展につながる。琉球ゴールデンキングスが本物の日本一になった。その実力を育てた沖縄の皆さんが、日本代表を応援して力を与えてほしい」と県民に呼びかけた。
 (古川峻)


 川淵三郎(かわぶち・さぶろう) 1936年12月3日生まれ、大阪府出身。早大出。61年に古河電工に入社し、サッカー部でプレー。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設に貢献し、初代チェアマンに就任。2002年のサッカーW杯は招致活動に尽力。15年に日本バスケットボール協会の改革に乗り出し、bjリーグとナショナルリーグ(NBL)の分離問題を解消しBリーグ発足の立役者となった。

 三屋裕子(みつや・ゆうこ) 1958年7月29日生まれ、福井県出身。79年にバレーボールで全日本入りし、81年に日立に入社。84年の米ロサンゼルス五輪で銅メダル獲得。引退後は学習院大講師など教職の道に進む。2004年に上場企業シャルレの社長に就任。07年に年日本バレーボール協会理事に就く。15年から日本バスケットボール協会副会長、16年から会長を務める。

 


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