サイレンに追われる日々 新城啓一さん(1)捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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新城啓一さん

 読谷村波平の新城啓一さん(86)から体験記をいただきました。新城さんは沖縄戦の時、今帰仁村与那嶺で避難生活を送っていました。海岸で米軍に捕らわれ、収容所に送られます。
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 新城さんは1937年2月、今帰仁村与那嶺で生まれました。父は徳保さん、母はナベさん。4人兄弟の次男です。沖縄戦当時、長男の啓三さんは家にいませんでした。「防衛隊に取られたと聞いています」

 新城家はイモを作る農家でした。「戦前、国民学校に通った覚えはありません。家の手伝いばかりをやっていました」と新城さんは話します。

 戦争の記憶は空襲警報のサイレンが強烈です。「役場あたりからサイレンが聞こえてきた」といいます。

 《昼間にサイレンが鳴ると、すぐ父の造った防空壕に逃げる。何時間かたつと出てくる。夜になるとまたサイレンが鳴り、すぐ家の光を消す。そんな毎日でした。》

 「夜サイレンが鳴ったらランプの明かりを消す。そうしたら家は真っ暗。こんな風に暮らしていました」と当時を思い出します。「サイレンが鳴ったら壕に入らなければならない。畑にもあまり行けなくなりました」とも語ります。

 壕は父の徳保さんが屋敷内に掘ったものです。「家族が入る壕をどうやって掘ったのだろう。縦に穴を掘って、横に掘り進めた壕です。父たちは相当苦労したと思います」

 空襲が激しくなるころには与那嶺集落の裏手にある壕に避難するようになります。