ガマへの避難が日課に 新城啓一さん(2)捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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現在の今帰仁村与那嶺の集落

 空襲が激しくなり、新城啓一さん(86)=読谷村=の家族は、今帰仁村与那嶺の自宅から集落裏の山中にあるガマに避難するようになります。

 《父が「今日から近くの山の中のガマに隠れることになる」と言いました。ガマへの避難が毎日の日課です。食事は父が家に取りに行き、ガマの中で食べます。夜になると家に帰りました。今なら山に入るとハブのことを心配しますが、当時はそういう話もしませんでした。》

 「今帰仁村史」に収められている「戦中戦後村行政日誌」によると1945年1月22日、延べ500機による大空襲を受け、村民は壕生活に入ります。3月1日からは空襲警報が毎日あり、23日から30日まで空襲が連続します。31日には「軍の命に依り村民は山中に避難す」とあります。

 4月1日に本島中部の西海岸に上陸した米軍は8日には今帰仁村湧川に侵入します。本部町の八重岳一帯では日米両軍の激戦が起きます。

 「本部あたりから爆弾が落ちるような音が聞こえてきました」と新城さんは語ります。与那嶺集落にも米兵は迫っていました。

 《ガマ暮らしをして何日になったか分からないが、山の上から突然、パンパンという聞いたことのない音がして、それがだんだん近くなってきた。父が「早く逃げよう」と言い、家族全員で海の方へ逃げた。》