戦後の中部、バスケ旺盛 名指導者の教え、脈々と<W杯沖縄開催 バスケ王国の系譜>6


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 芥川賞作家の大城立裕が戦後まもない野嵩高(現普天間高)教諭時代をつづった自伝的小説「焼け跡の高校教師」にこんな一文がある。「校区の中城、北中城村は戦前から伝統的にバスケットボールに強いところで、そこから選手を大量輩出するのは、目に見えていた」。47年に第1回全島高校大会で優勝したコザ高、翌年大会で頂点に立った野嵩高のメンバーは、ほとんどが中城と北中城の出身者だった。率いたのは中城出身で県バスケットボール協会初代会長の小橋川寛。戦後、中城と北中城から多くの優れた選手や指導者が誕生した。

伝統

 1960年12月18日、石川中で第5回沖縄中学校選手権が開かれ、中城が男女で3連覇、男子は4度目の優勝を達成した。男子が42―14、女子が44―6で相手を圧倒。翌日の琉球新報は「中城の力は抜群」「優勝はあざやかなものだった」「中学生とは思えない技術と試合運び」などと絶賛している。

バスケットボール中学校選手権で男女で優勝した中城中の記事(1960年12月19日、琉球新報)

 エースの西原利枝(76)は「私たちが沖縄で最初にジャンプシュートを使った女子チームだと思う」と話す。強さの背景に、中城出身で監督だった故・知念清の名前を挙げる。知念も戦前、明治神宮大会で県勢として初めてジャンプシュートした人物として知られる。

 毎朝の腕立て伏せでシュートを放つ時の上半身を鍛え、カットインやランニングシュートと呼ばれたレイアップなど本土で学んだ技術を指導。給水時間を設けるなど科学的な練習を取り入れていたという。

 練習は野外コートの石を取り除くことから始まり、シューズがない人もいたため、皆がはだしでプレーした。西原は「農村で貧しかったから、バスケかバレー、陸上くらいしかやることがなかった」と振り返る。西原は砲丸投げで当時、全国9位の県記録保持者にもなったという。

 中城の男子は56年の第一回大会から6年間で5度の優勝、翌年の第2回大会から出場した女子は9年間で7度頂点に立っている。

全沖縄中学校バスケットボール大会で3連覇した中城中の女子メンバー・中段右端に監督の知念清がいる=1960年12月

体育教師

 中城村出身で70~80代の複数のバスケ指導者によると、中城の各公民館には木の柱に板を取り付けたバスケットリングがあり、小学生時代から青年たちと「公民館バスケ」に慣れ親しんだ。リングは青年会が曲がったリングを修理したり、バケツを切り取ったりしたものがあったという。若夏国体で教員男子チームだった平敷善盛(74)は「青年会が活発だったこともバスケが盛んな要因の一つではないか」と推測する。

 北中城村出身で普天間高で監督を務めた故・玉城義一も指導者として名高い。知念と親交があったため、中城中と普天間高で試合することもあったという。玉城は若夏国体で県勢初の全国優勝を成し遂げた教員男子チームの監督も務めた。

 知念や玉城の薫陶を受けたのちの名指導者は数知れない。山内中を県勢で初めて全国準優勝に導いた新里勲(80)やコザ中を全国優勝させた伊佐盛信(80)、海邦国体で成年女子を準優勝させた仲村進(81)、与勝中を全国一にした比嘉良治(64)などが教えを受け継ぎ、県内バスケの強化に尽力してきた。

 比嘉美代子(76)は中城中、普天間高で2人の指導を受け、琉大で同級生3人とバスケ部を立ち上げた。卒業後はそろって体育教師になっている。比嘉は「素晴らしい先生との出会いのおかげで今の自分がいる。生活指導から進路の相談まで熱心に教える先生に憧れて教師が目標になった」と懐かしんだ。

(敬称略)
(古川峻)