尾野真千子さんと沖縄で再会 奈良で出会った彼女との不思議な関係 河瀬直美エッセー<とうとがなし>(7)


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(左)現在の尾野真千子さん(右)筆者が出会った14歳の頃=1996年、奈良県西吉野村

 前回紹介した今帰仁村にある「紅型工房ひがしや」さんの帰り道、ふと見るとそこに尾野真千子が居た。沖縄に嫁いだとは聞いていたが、こんな再会は夢にも思わなかった。彼女はピンクの割烹着(かっぽうぎ)を着て、ゴミ箱を洗っていた。その姿は集落の人そのもので、思わずこれは映画のシーンの一部かと錯覚したくらいだった。聞くと、彼女の旦那様が経営する「北山食堂」のリニューアルを手伝っているのだという。ああ、真千子らしいなと思った。

 1996年の春。私は『萌の朱雀』という長編第1作の映画の出演者探しのために奈良県西吉野村の西吉野中学校を訪れていた。当時は今のように学校のセキュリティは厳しくなく、ましてや山の中の中学校である。外部の者が校内に入っていても、みんなおおらかにそれを受け入れてくれていた。私はこの映画の中心人物となる16歳の少女を探して村内を歩いていたのだ。いわゆる芸能事務所に所属するアイドルを目指す少女ではなく、素朴な、この村の方言を日常会話として話せる女の子。そして、私の出演者に欠かせない「目ヂカラ」のある人物。その奇跡の出逢いはこの西吉野中学の職員用靴箱の前で起こった。

 中学生の掃除の時間。真剣に清掃に勤(いそ)しむ学生はめずらしい。お友達とおしゃべりに夢中になったり、掃除道具でチャンバラごっこをしたり、そんな活発な子供たちの中に、一人で必死に先生の靴箱を雑巾掛けする少女がいた。声をかけてみると、はにかんだ笑顔がかわいい。14歳の尾野真千子がそこにいた。私は持っていた一眼レフのカメラを彼女に向けた。すると彼女はその「まなざし」を真っ直ぐ逸らすことなくレンズに向けてくれた。ファインダーを通して萌の朱雀の「みちる」に出会った瞬間だった。

 早速出演の許諾の為に、ご両親に会いに自宅を訪ねたが、けんもほろろに断られた。理由は芸能界のようなところに娘を送り込むことはできない。ましてや4姉妹の一番末っ子で引っ込み思案の真千子にそんなことができる訳がない。それでも私は諦めなかった。来る日も来る日も真千子のことを考え、最後は大工をしているお父さんの隣村の仕事現場まで行って説得をした。その日、お父さんはお家で収穫された春キャベツを私に手渡してくれた。「これ、持っていき」。その時の笑顔で私は確信した。ああ、信頼してくれたんだ、と。

 映画への出演にあたり、ご両親から渡された条件は一つ。高校受験を控えた夏休みに、撮影のために勉強を疎(おろそ)かにしないこと。また、高校に入学できる学力を身につけること。その日から真千子と一緒に受験勉強をしながら、撮影の準備をする日々が始まった。彼女は山に自生する草花の名前はあらゆるもののそれを言い当てる。けれど、いざ英語になるとbe動詞さえわからない始末。私は折り紙にamやisといったbe動詞を書いて、それを目に見える山に当てはめ、覚えてもらうことを思いついた。こうして、彼女との不思議な関係を構築していった。

 やがて完成した『萌の朱雀』は世界最高峰のカンヌ映画祭の新人監督賞を史上最年少・日本人初で私は受賞することとなり、全くの素人だった村の少女「尾野真千子」はシンガポール国際映画祭の女優賞を獲得する快挙を成し遂げた。

 あれから27年の月日が流れた。奈良の西吉野村で靴箱を掃除していた彼女との出会いは、沖縄の今帰仁村でゴミ箱を掃除している尾野真千子さんとの再会につながって、満開の緋寒桜(ひかんざくら)の下、明るい未来の到来を予感している。

(映画作家)