今帰仁村与那嶺の山中にあるガマに潜んでいた新城啓一さん(86)=読谷村=の家族は米軍が迫っているという知らせを受け、他の住民と共に浜へ逃れます。「父が『なあ、ひんぎらねーならんよ』(もう逃げなければならない)と言っていました」と新城さんは話します。
避難先は与那嶺の人々が「長浜」と呼んでいる砂浜です。岩場にはガマがありました。
与那嶺公民館がまとめた「與那嶺誌」(1995年)によると米兵は本部町伊豆味方面から与那嶺に入ってきます。住民は海から米兵が攻めてくるものと予想して山に隠れました。山から来た米兵に住民は驚きます。
《砂浜に来て、岩の下のガマに隠れた。ガマでは家族は息を潜めていた。たくさんの住民も隠れていた。全員息を潜めていて、誰一人声を出す人もなくシーンとしていた。》
そのガマの前に米兵が現れ、「出て来い」と呼びかけます。
《突然、ガマの前にアメリカ兵が来た。だれもアメリカ兵を見たことはなかった。住民はぶるぶる震えていた。そうしているうちに日本語を話す人がいて「出て来い、心配するな」と言った。住民の震えは止まり、全員外へ出た。》
長浜にいたのは2、3時間ほどです。ガマにいた約50人の住民は米兵に捕らわれます。「今考えると、捕虜になると殺されるというデマを聞いたことはなかった」と新城さんは語ります。