米軍と交流、“本場”に触れる 「レッツプレーゲーム」で対戦、NBAまね、沖縄独特のスタイル<W杯沖縄開催 バスケ王国の系譜>7


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琉米親善バスケットボール大会の様子。琉大には体育館がなく、会場は男子寮の中庭だった=1957年、那覇市首里(琉球大学所蔵)

 「戦後の沖縄バスケは中部発祥と言っても過言ではない」。中城村出身で長年指導者として県内バスケの強化に貢献してきた仲村進(81)はそう語る。理由の一つに中部に集中していた米軍の存在を挙げる。軍雇用員が多く、リングやボールは比較的簡単に払い下げで手に入ったほか、基地内の体育館で琉米親善大会などが開かれた。米国人との対戦や米本国から選手が来沖することもあり、沖縄のバスケは身近な“本場”の影響を受けていた。

 琉米親善

 「沖縄県体育協会史」によると、1949年に始まった野球を皮切りに、さまざまな競技で琉米親善大会が行われた。「沖縄県バスケットボール協会 40年のあゆみ」にはバスケの琉米親善の始まりは54年とある。県協会4代会長の故・當眞哲雄が米軍に働きかけたことで、全国総体に初出場したコザ高が嘉手納航空基地内の体育館に招待された。

 南部農林高時代に毎年、琉米親善大会に出場した仲村によると、迷彩柄の米軍トラックが学校まで迎えに来ていたという。「僕たちははだしで練習していたのに、相手は立派な体育館があった。ボールハンドリングなど個人技が優れていた」と刺激を受けた。ハワイやフィリピンなどの米軍基地同士の対抗試合を見学したこともあるという。

 中城村教育長の比嘉良治(64)は幼少期から、70年まで久場公民館近くにあったクバサキハイスクールの屋外コートによく忍び込んでいる。「コートは土ではなくリングも本物。格好の遊び場だった」と笑う。普天間高時代はキャンプ・フォスターのズケラン体育館までドリブルで向かい、「レッツプレーゲーム」と米兵に話しかけて対戦した。比嘉は「組織的なプレーをする本土と違い、一対一が鍛えられた」と振り返る。

 「沖縄県体育協会史」によると、琉米親善大会は多くの競技で60年代半ばには下火になる。仲村は「引率責任の問題や、米兵の事件事故などで県民の認識が変わってきたことが要因ではないか」と推し量った。

ズケラン体育館で行われた、世界最強のチームとして来沖したハーレム・グローブトロッターズの試合を伝える琉球新報(1958年10月6日付)

6チャンネル

 テレビが一般家庭まで普及すると、米プロリーグNBAなどを放送した基地向けの米国番組「6チャンネル」が影響を持ち始めた。沖縄市スポーツ協会会長の稲嶺啓美(61)=旧姓金城=は強豪のコザ中時代から、「部活の皆がNBAのプレーをまねしていた」と振り返る。

 稲嶺の忘れられない試合に、ラリー・バードとマジック・ジョンソンが対戦した79年の全米大学選手権(NCAAトーナメント)決勝がある。だが高校卒業後の翌年、スカウトされて第一勧銀女子バスケ部に入った時、本土の実業団選手は誰もこのスターたちを知らなかった。「沖縄は本土よりアメリカの情報がたくさんあった」と話す。

 第一勧銀2年目で稲嶺に転機が訪れる。当時は「先輩には目を見て両手でパスしないと失礼」という空気があったが、稲嶺が放ったノールックパスを日本代表エースでチームの先輩だった中川弘子が取り損ねたのだ。だが中川は「いいパスを取れなくてごめんね。どんどん投げて」と声をかけたという。

 片手のバックパスなど沖縄では普通だったプレーができるようになると、稲嶺は83年に日本代表入り。84―85年シーズンは年間アシスト王に輝いた。稲嶺は「沖縄のバスケは本土とは違っていた。よくアクロバットなパスをすると言われていた」と語った。

(敬称略)
(古川峻)