10・10空襲で兄失う 松茂良美智子さん(1) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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松茂良美智子さん

 那覇市繁多川の松茂良美智子さん(91)から沖縄戦体験記が届きました。沖縄戦の時、真和志国民学校の高等科に通っていました。現在の糸満市喜屋武に逃れ、米兵に捕らわれます。戦後、石川の収容所を経て、真和志村民の一人として、同市の米須で暮らしています。

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 松茂良さんは1932年2月、真和志村(現那覇市)繁多川で生まれました。父は戦争前に他界し、母ツルさんの下で育ちました。7人きょうだいの6番目で、県外で働いている兄や姉もいました。沖縄戦の前はツルさん、10歳の弟の朗さん、次男の嫁と1歳のおいの5人で暮らしていました。

 44年10月の10・10空襲の日、繁多川の高台から那覇が燃える様子を見ていました。

 「友軍が来たんだと喜んで、那覇の町を見てみると真っ黒い煙が上がっていました。これは爆弾だと驚き、自然壕に避難しました」

 自然壕とは、現在の那覇市立石田中学校の近くにあった「イシジャヌガマ」(石田の壕)です。地域住民の避難場所になっていました。

 この空襲で松茂良さんは次兄の佐久本次郎さんを亡くします。次郎さんは召集され、八重山にいました。

 「兄は10・10空襲の前に八重山に行っていました。軍の船で戻るところを攻撃されました」

 船が沈められたのは久米島沖です。次郎さんが亡くなり、妻と子が残されました。

 45年になり空襲が激しくなると松茂良さんら家族は日中、「イシジャヌガマ」に避難し、夜になると自宅に戻るという生活を送るようになります。