沖縄のバスケ熱を支えるミニバスケ 宮古島から普及、「本島に追い付き、追い越せ」 <W杯沖縄開催 バスケ王国の系譜>8


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 競技を始める入り口になることが多いミニバスケット。関係者の多くが「ミニバスケットボールが沖縄のバスケ熱を支えている」と口をそろえる。1983年の県ミニバスケ連盟(現県バスケ協会U12)の設立に先駆けて、普及が始まったのは宮古島からだった。きっかけは、宮古バスケ協会2代会長の仲田繁市(89)と親交が深かった、ミュンヘン五輪のバスケット男子日本代表監督で筑波大名誉教授の笠原成元(しげよし)の指導にある。
 

先駆け

 74年1月、仲田が笠原成元を宮古島に招待し、学校でミニバスケの交歓大会と講習会が実現した。リングの高さやコートサイズなど基本的なことを教わり、これを機に宮古協会が競技の普及に乗り出した。宮古協会元会長の笠原渥(あつし)(70)は「沖縄(本島)に追い付き追い越すため、ミニからの人材育成を考えた」と振り返る。

 協会メンバーで鉄パイプなどを集めてリングを手作りし、トラックで各地の小学校まで運んでよく大会を開いたという。当時は宮古の各小学生を集めて暗くなるまで練習しており、島内のあらゆる家庭で、壁に穴を空けた自家製リングが取り付けられるほど広まったという。

宮古島でミニバスケットボール普及に尽力した(前列右から)宮古バスケットボール協会の仲田繁市、筑波大名誉教授の笠原成元、宮古協会の笠原渥=1975年(提供)

 笠原成元は74年以降もたびたび宮古島を訪れ、技術や戦術などを指導した。成果はすぐに現れ、協会の記録が残る79年の第2回県大会から宮古勢の男子が5連覇を達成。女子は79年から9年間で8度頂点に立った。優勝校も平良第一や下地、福嶺、上野、狩俣など多岐にわたり、島全体の底上げが成功している。

 元Bリーガーの友利健哉(38)など、ミニから育ったプロ選手は少なくない。現在でも大会のたびに体育館が父兄や親戚で埋め尽くされ、笠原渥は「宮古のバスケ熱はいまだに冷めていない」と話す。
 

普及

 県ミニバスケ連盟5代会長の高森新一(65)によると、県連盟が発足した背景に「このままでは宮古が一人勝ちになる」という意識があったという。山内中を全国準優勝に導くなど数々の功績がある新里勲(80)を中心に、83年8月に発足準備委員会が立ち上がった。

 新里はミニの構想を長年温めていたという。「東洋の魔女」として名をはせた東京五輪女子バレーを率いた故・大松博文に憧れており、全国に普及したママさんバレーからヒントを得た。沖縄をバスケ一色にするため、小学生から競技を底上げするべきだと考えていた。
 

諸見と嘉手納の県勢対決となった第20回九州ミニバスケットボール大会沖縄大会男子決勝。諸見が優勝した=2000年1月、那覇市立体育館(提供)

 県協会の承認を受けて、83年12月に県連盟が発足した。高森によると、30程度から出発した登録チームは年々増え続け、2022年度の登録数は344チーム、競技者数は7631人で人口比全国1位となっている。県勢は86年の第6回九州大会から九州5連覇を達成したほか、これまで幾度も全国上位に食い込んでいる。

 元三菱電機コアラーズの西田陽子=旧姓・安谷屋=(43)は、室川小2年でバスケを始め、92年に全国3位になっている。「厳しい練習の中にバスケの楽しさを知った。全国でもっと上手な人がいることも分かり、中学、高校で勝ちたいと思うようになった」とその後の競技に取り組む原動力になった。

 西田は県協会で女子ユースのコーチを務める傍ら、小学生向けに教室も開く。バスケワールドカップに向けて「地元として自分ができることしたい」と県外のトップコーチを招いてクリニックも開いた。「ミニの時にやっていた基本トレーニングをプロでもやっていた。ミニが一番大事な年代だと思う」と語った。

 (敬称略)
 (古川峻)
 (随時掲載)