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「誰のため、何にために戦ったのか」 元特攻隊員・陳さん 戦後、日本は台湾を「見捨てた」 <東アジアの沖縄・第2部「戦争の傷痕」>②


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「われわれ台湾人は、何のために誰のために戦ったのか」と話す陳金村さん=3月、台北市

 台北市に住む陳金村(ちぇんじんちゅん)さん(95)は1944年8月、16歳で海軍に志願した。3カ月間、海兵団で船の操縦やエンジン整備などの訓練を受けた後、上官が告げた。「海軍で一番優秀だ」。喜ばせる言葉は「震洋特攻隊」への配属のため。後から配属を聞いた陳さんは目の前が暗くなるのを感じた。生きて帰れないことを知っていた。

 太平洋戦争末期、艦隊が壊滅状態に陥った海軍が“最後の手段”として開発を急いだのが特攻兵器「震洋」であった。ベニヤ板製のボートの艇首に250キロ爆弾を装着し、敵に突っ込むもので米軍に“自殺ボート”と呼ばれた。日本軍は敗戦までに約6200隻を建造。フィリピンや台湾、沖縄にも配備された。

 45年2月ごろ、台湾・高雄市の第21震洋隊に機関兵として配属された。寿山(ことぶきやま)の北側の絶壁には、格納壕が掘られていた。海に出て攻撃目標を狙う訓練は、空襲が激しい昼を避け、夜に行われた。

 ベニヤ板の特攻艇はすぐに浸水。陳さんは必死に海水をかき出した。スクリューで立つ白波は米軍機に狙われた。「ヒューヒューパッパッってものすごい勢いで弾が頭をかすめていく」。エンジンを止め、やり過ごしたがいつ爆発してもおかしくなかった。「訓練から命懸け。日本軍がなんでそういう武器を開発したか分からないけれど、『新しい武器』だなんて言われていたんだから」

 沖縄に米軍が上陸したことは無線で知った。次は台湾か―。緊張しながら訓練を繰り返していたある日の朝早く、米軍のビラがまかれていた。「日本は降参した。抵抗するな」。目にして感じたのは、悔しさよりも命のありがたみだった。「あぁ良かった、この命、助かった。死なないで家に帰れる」。海軍兵から16歳の少年に戻った瞬間だった。

 戦争に負けた日本は台湾の領有権を放棄。台湾は国民党が政権を握った。政権の人権弾圧は87年に戒厳令が解除されるまで長く続いた。

 「日本は台湾を中国に渡した。つまり見捨てた訳なんだ。その後、台湾をほったらかしにした。“アジアの平和のため、天皇のため”って教えられていた僕ら台湾の兵隊は、果たして誰のため、何のために命懸けで戦ったのか」

 米中のはざまで軍事衝突の危機にさらされ続ける台湾。関係する国々に、ミサイルを撃ち合う事態になるのを避けてほしいと望む。「大陸からいつも直接ミサイルが台湾に向いていて、台湾人としては怖い。いくら米国の武器があっても、ミサイル戦争になったら相手が勝つ。台湾は終わりだ」

 台湾政府は米国から武器の購入を進め、民間でも防衛強化が叫ばれるようになっている。陳さんは次世代に戦争の実相が伝わっていないとも感じている。「戦いというのは惨めなものですよ。戦争は嫌なんです、本当に。できるだけ中国大陸といいように交流して、戦争をしないでほしい」
 (中村万里子)