砲撃で1歳のおい失う 松茂良美智子さん(5) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
現在の糸満市豊原

 1945年5月中旬、真和志村(現那覇市)繁多川を出た松茂良美智子さん(91)=那覇市=の家族ら11人は、知人のいる高嶺村(現糸満市)の第二与座(現豊原)に着きます。
 《ようやく高嶺村の与座岳のふもとにある第二与座の民家にたどり着いた時には夜の9時過ぎでした。翌日から壕探しに出かけたら、近くの民家の主人が壕を掘って売ってくれるとのことで、一週間目にやっと250円で壕を買いました。》
 第二与座では1歳のおいが亡くなります。砲撃で崩れた岩が胸に当たり、1週間苦しんだ後、6月5日ごろに息を引き取りました。おいの最期を思い出す時、松茂良さんは涙をこらえることはできません。
 6月8日ごろ、米軍は第二与座に迫まります。
 《6月10日くらいだったと思います。壕の近くが騒がしくなりました。両親が米軍に連れて行かれたとのことで、若い男女が泣きながら逃げていくのを見ました。
 ここにもいられない。すぐ日没と同時に、最南端の喜屋武岬を目指して壕を出てみると、巣からはい出したアリのように民間人が列をなしているのには驚きました。もう周囲には草木も家屋もなく焼け野が原のところから、よくもこんなに人が生きているなと思いました。》
 松茂良さんらは夜遅く、喜屋武村(現糸満市)の喜屋武集落の民家に落ち着きます。