<未来に伝える沖縄戦>学業はわずか 陣地構築従事 山田芳男さん


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 那覇市首里大名町に住む山田芳男さん(92)は、首里市(当時)の儀保町で育ち、県立第一中学校在学時に沖縄戦が始まりました。米軍の侵攻が進んだため、本島南部へと避難。そのさなかに育ての親である大叔母が犠牲になりました。山田さんの話を、首里中学校2年の高安美妃さん、外間郁成さんが聞きました。

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子どものころに体験した沖縄戦を振り返る山田芳男さん=6月29日、那覇市の首里中学校(大城直也撮影)

 《山田さんは1931(昭和6)年に当時日本の領土だった台湾で生まれました。3歳のころに沖縄本島に移り、以降は台湾の家族と離れて祖母や大叔母(祖母の妹)の長嶺菊枝さんらと暮らしていました》

 大叔母は夫に先立たれ、首里の儀保で下宿を営んでいました。僕も儀保で育ち、1937年に沖縄師範学校の付属小学校に通いました。小学校のころは日中戦争の真っ最中で、勝つまでは我慢しようといった、皇民化教育が進んでいたように感じます。学校の前にはわら人形が並べられていて、朝、登校時に竹やりで「ヤー」って突かないと教室には行けませんでした。

 44年4月に、県立一中に入学します。初めは普段通り教室で授業を受けましたが、1学期が終わる7月ごろになると奉仕作業が中心となりました。僕らは繁多川の森で壕を掘ったり識名の高射砲陣地を構築したり、与那原では陣地を造るために山の土砂をトロッコに積めて海側へと下ろす作業などをしていました。

 徒歩での移動は大変でした。勉強をしたいという思いはありましたが、これがお国のためになるとしか考えていませんでした。

 《奉仕作業に明け暮れる中、44年10月10日、米軍機が県都・那覇市などを集中攻撃しました。後に「10・10空襲」と呼ばれる空襲です。空爆が繰り返され、那覇は甚大な被害を受けました》

 その日は那覇港で荷物の仕分け作業が割り振られていて、午前7時ごろに生徒数人で港に向かっていました。牧志のガーブ川を渡ろうとした時に、戦闘機が低空飛行をしているのが見えました。「きょうの演習はすごいな」と感心していたところ、空襲警報が鳴っていたようで、近くにいた人に「何ぼさっと立っているんだ」と怒られました。

 待避壕や竹やぶなどで身を隠しながら那覇港へ進み、東町の山形屋の辺りから港を見ると、戦闘機が港に向かって機銃掃射をしていて、軍に徴用されていた漁船から機関銃で応戦しているのが見えました。

 状況を見て、とても近づけないと判断したため、軍用機が飛んでいないことを確認して真和志村安里辺りまで壕から壕へと移動しながら向かいました。首里の山川に着くと午後4時ごろになっていて、小高い首里の丘から海側を見ると、ようやく真っ赤に燃える那覇の街に気がつきました。

 10・10空襲までは奉仕作業があったのですが、その後は実家や県外に疎開する生徒も現れ始め、みんなばらばらになりました。そうしてほとんど学校や作業に行く機会はなくなってしまいましたね。1年生は鉄血勤皇隊には含まれていなかったのですが、志願などして戦地で戦った人もいました。沖縄戦では33人が犠牲となっています。

※続きは7月19日付紙面をご覧ください。