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「抗日勝利」祝う台湾から引き揚げ 元高雄一中学徒・宮城政三郞さん 敗戦の惨めさかみしめ 「同じ過ち繰り返さないで」 <東アジアの沖縄・第2部「戦争の傷痕」>③


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台湾からの引き揚げ時に見た光景を語る宮城政三郎さん=1月、那覇市

 1945年11月、宮城政三郎さん(95)=当時(17)、那覇市=の一家は台湾から与那国へ引き揚げるため、道を急いでいた。各集落では爆竹を鳴らし、「祖国復帰」「抗日戦争勝利」を祝っていた。一方で、うち捨てられた日の丸や「標準語励行」の札の数々。日本の統治下で皇民化教育が強いられていた。「台湾人はどんなに日本を憎んでいたのだろう」。驚きとともに少年の目に強く焼き付いた。

 台湾に最も近い沖縄の与那国島出身。漁船を所有する父親の仕事の関係で小学6年まで台湾で育ち、41年に沖縄の県立第一中学校に進学。飛行場建設や壕掘りに駆り出され、44年夏、戦争になるなら家族と一緒にいたいと戻り、高雄第一中学校に編入した。

 高雄への空襲で自宅は全焼。一家は山奥の新威という小さな集落に避難した。しかし一人高雄の学校に戻ることを決め、母親に連れられて行くと祈祷(きとう)師が祈りをささげ、お守りを首に下げてくれた。

 45年3月、高雄一中は3~5年生が学徒隊を編成。ほとんどが台湾の学徒で、宮城さんは小隊の分隊長になった。「天ぷらを持ってきたよ」「宮城さん、この戦争は負けるよ」。隊員とは気さくに内緒話を交わした。

 5月、寿山(ことぶきやま)で午前の作業を終え、昼ご飯を食べようとしたところ、「退避!」とのかけ声で穴に飛び込んだ。「バババ」と爆弾が落ち、破片が木の幹に「ビュンビュン」と突き刺さった。1時間ほどの波状攻撃の後、外に出ると14、15人が亡くなっていた。全員、台湾の学徒だった。遺体を荷車に積んで火葬し、親たちに死を伝えると泣いていた。「たまらなかった」

 終戦で召集を解かれ、家族と合流した。新威の人たちは「もう帰らないでいいよ。宮城さんは私たちと一緒だから」と言ってくれた。旗山(きざん)の町では日本の憲兵が暴行を受けているのを目にした。

 与那国に闇船が出ているとの情報を聞き、蘇澳(すおう)に向かう途中、列車で台湾の同級生らと再会した。「宮城君どこに行くの」「もう故郷の島に引き揚げるよ。君たちはどこに行くの」と聞き返すと、台湾大に受験に行くという。自身の境遇との違いに肩を落とした。「がっかりした。大学受験に行ける同級生に比べ、負けた国の惨めさを思い知った」

 与那国で小学校教員となり、大学進学はできなかった。戦後、「国の間違った戦争だった」と考えるようになり、子どもたちに戦争の悲惨さ、日本の過ちを伝えてきた。

 「台湾有事」を念頭にした南西諸島への軍備増強を“かつてきた道”と警鐘を鳴らす。安保3文書の改定に対し宮城さんの呼びかけで1月、「元全学徒の会」は「沖縄を戦場にすることに断固反対する」声明を出した。

 歴史に学び、武力ではなく外交で解決するべきだという思いを強める。「戦前の同じ過ちを繰り返そうとしているようだ。日本には平和憲法がある。それを前面に隣り合う国や地域の人々と平和を築いてほしい」
 (中村万里子)