対馬丸で同級生が犠牲に 新城喬さん(2) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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那覇市のパレットくもじ。この地に甲辰国民学校があった

 1944年8月22日、疎開児童らを乗せた対馬丸が鹿児島県の悪石島付近で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没します。学童784人を含む1484人(氏名判明分)が犠牲になりました。

 新城喬さん(91)=北中城村=が通っていた甲辰(こうしん)国民学校の児童も命を落としました。新城さんの家族は母ヨシさんの実家がある東風平村(元八重瀬町)富盛(ともり)に避難するため、九州への疎開はしませんでした。

 《甲辰国民学校の児童も乗船した対馬丸は悪石島の近くで米軍の魚雷にやられ、多くの幼い、貴い命が失われました。もし、九州疎開を決めていたら、私は対馬丸に乗船したかもしれません。今思うと運命は紙一重だったと感じざるを得ません。》

 米潜水艦による対馬丸撃沈を知ったのは戦後のことです。「かん口令がしかれていて、当時は対馬丸が沈んだことを聞いていません」と話します。甲辰国民学校は児童105人、訓導2人、世話人3人が犠牲になりました。犠牲者には新城さんの同級生もいました。

 一家が富盛に移動した後の10月10日、那覇市は10・10空襲に遭います。甲辰国民学校も焼けてしまいました。

 10・10空襲の数日後、新城さんはヨシさんと共に那覇へ向かいます。「全部焼けていました。自分が住んでいた家にも行こうとしましたが、怖くて行くことができませんでした」と新城さんは語ります。