家族で古墓に避難 新城喬さん(3) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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現在の八重瀬町富盛の集落

 那覇から母ヨシさんの故郷である東風平村(現八重瀬町)富盛に移り住んだ新城喬さん(91)=北中城村=は東風平国民学校に通います。学校は武部隊(第9師団)が駐屯していました。

 新城さんはヨシさん、きょうだい3人と共に伯父の家に身を寄せました。年が明け、空襲が激しくなると、富盛(ともり)にも危機が迫ってきます。家族は古墓に避難するようになります。

 《わが家族5人は度重なる空襲と、那覇方面から避難してくる人々の恐怖に満ちた体験を聞かされて、今のうちに避難しようと、かつて先祖が使用していた古墓に他の親族の2世帯とともに逃げ込みました。》

 古墓に避難したのは米軍が本島中部西海岸に上陸した後の1945年4月初旬です。古墓は崖の上にあり、お年寄りにとっては厳しい避難生活でした。

 《高い絶壁の中腹にある墓には、縄を利用しないと昇降は困難でした。一緒に来た祖父の姉は年老いて上がれないので、しかたなく崖下の岩陰に残して、母が1日1回、何か食べるものを持って下りていきました。しかし、玄米も思うように炊けず、だんだん食べ物もなくなっていきました。》

 3月下旬から続いた激しい空襲と艦砲射撃で富盛の集落も焼けてしまいました。母方の祖母と叔母が銃弾を受け、命を落とします。祖父の姉もだんだん衰弱していきました。