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W杯に向けたアリーナ構想 招致の舞台裏 背景にFIBAと信頼築いた川淵氏の存在<W杯沖縄開催 バスケ王国の系譜>11


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 2016年11月16日午後、沖縄市長の桑江朝千夫(67)に、日本バスケットボール協会前会長の川淵三郎(86)から一本の電話が入った。「日本のバスケットボールを世界に認められるようにしないといけない。中国の後に日本でワールドカップをしたい。沖縄市のアリーナで手を挙げていいか」。桑江は伝えられた内容に驚いたが、その場で川淵と約束を交わした。「2023年までに確実にアリーナを完成させます」。沖縄市と川淵とのやりとりから、県も含めた開催地との連携の一端を垣間見ることができる。
 

川淵の存在

 W杯沖縄開催の実現に川淵の存在は欠かせない。川淵は「(開催は)文句なしに決まったんじゃないか」と断言する。そう言い切る背景には、bjリーグとナショナルリーグ(NBL)に分離していた国内リーグ問題を解消させ、FIBAの実力者だった事務総長の故・バウマンと財務部長のワイスの信頼を勝ち得たことがある。

(左)桑江朝千夫氏 (中央)川淵三郎氏 (右)三屋裕子氏

 日本協会は2014年10月末までにリーグ問題を解決できず、FIBAから無期限の国際資格停止処分を科されていた。14年春ごろから水面下で両リーグの仲裁役になっていた川淵。10月にバウマンから協会に制裁を科すべきか問われた時も「与えないと変わらない。やったほうがいい」と提言している。

 その後、FIBAは川淵に日本バスケ界の建て直しを要請。川淵は15年にタスクフォースのチェアマンに就任し、Bリーグ発足の道筋を付けた。川淵は「2人はスタートの時から、俺ならやってくれると信じていたのではないか」と振り返る。現在でも、川淵とワイスは時々一緒に食事をするなど旧交を温める仲だ。

 日本協会会長の三屋裕子(65)によると、日本を含めた3カ国共催のアイデアを与えたのもワイスだったという。日本は06年の世界選手権で赤字を出しており、一国での開催では難しいとの見立てがあった。三屋は「大会運営をちゃんと任せられる日本が共催すれば、FIBAにとってはリスクヘッジができた」と話す。

 17年12月、無事に3カ国共催で決定したW杯。川淵は「(リーグ問題の解消など)しっかりとやるべきことをやった日本で開催するという話につながった」と推し量る。ただし、開催条件には沖縄アリーナの完成も付随していた。
 

アリーナ文化

 アリーナ事業が動き出したのは14年。桑江はアリーナ建設の着想について「観光立県として栄える沖縄の好景気に市が置いてきぼりにされてはいけない。コンサートなど通年にわたって人を集めることができるのがアリーナだった」ときっかけを語る。

 沖縄市にプロジェクト推進室が発足し、琉球ゴールデンキングスの当時社長だった木村達郎だけでなく、音楽イベントの興行者など幅広い意見を聞き入れて基本構想が作成された。桑江は財源を得るために幾度も国へ要請。1万人規模という席数を巡り国と折り合わない時もあった。桑江によると、川淵が各地の講演などで沖縄アリーナに言及していたことも追い風になったという。

 全国各地でアリーナ文化を広めていた川淵は、スポーツビジネスが成功するためには、チームが地域に根ざし、ホームアリーナを持つ重要性を訴えてきた。Bリーグ開幕戦でVIP席がいち早く売れたことにも触れ、スイートルームがある沖縄アリーナを絶賛する。「ここでしか買えないグッズや食事があるか楽しみだ」と生で見るW杯に期待する。

多くの関係者らで祝う沖縄アリーナの落成記念式典=2021年3月28日、沖縄市山内

 沖縄アリーナを皮切りに現在、全国各地でアリーナ建設が進む。「Bリーグで琉球ゴールデンキングスが優勝したのはバスケ界にとって象徴的だった。アリーナがあることで人が集まり、大きく利益に貢献した。これほどバスケ界にとってありがたいことはない」。沖縄アリーナでのW杯の成功は、日本バスケ界が目指す道筋を明るく照らすだろう。

 (敬称略)
 (古川峻)