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港川沖から激しい砲撃 諸見里ユキさん(3) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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現在の八重瀬町港川

 1945年に入り、諸見里ユキさん(90)=八重瀬町=が暮らす具志頭村(現八重瀬町)後原でも空襲警報が増えます。

 《空襲警報が頻繁になり、壕に出入りする日が多くなっていった。最初は家の裏に簡単な壕を掘っていたが、そこでは危ないということで、近くの丘に大きな壕を掘って、5世帯約40人くらいで入っていた。

 昼間は壕の中に桶を置いて排出し、夜になってから近くの原野に捨てていた。》

 諸見里さんの父、真信さんらが自宅の近くにあった小高い丘に防空壕を築きました。5カ所の入り口を設け、内部に広めの空間を設けました。

 避難生活を支える食料は米、豆、芋などでした。「食料で不自由をしたことはなかったですね」と諸見里さんは話します。

 3月24日以降、米軍は具志頭村港川方面から激しい艦砲砲撃を加えます。上陸を装う陽動作戦でした。港川の住民は後原に避難します。米軍が上陸するという話が広まっていました。

 「米軍が上陸するというので港川の人が後原にも避難していました。後原にある自然壕に港川から来た人がいたようです」と諸見里さんは話します。

 4月1日、米軍は現在の北谷町、嘉手納町、読谷村の西海岸に上陸します。その後も諸見里さんらは自宅近くの防空壕にとどまりました。