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記者会見の意味 多面的情報提供の場 口封じの恫喝許されない<山田健太のメディア時評>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
深刻な問題が生じている記者会見(コラージュ・久高陽)

 インターネット社会の中で、政府も企業も国民・消費者に対し直接、情報発信することが一般化している。市民も、自分が社会に訴えたいことを、報道機関に伝えてもらうだけでなく、SNSに投稿することも当たり前だ。「マス」の衰退がいわれる中、むしろこうした直接発信が力を持ってきている。

 もちろんこれ自体、自由な表現活動であって何ら問題がないばかりか、受け手である一般市民にとってもより多くの情報が手軽に入手できるメリットは大きい。ただしこうした発信形態の変化が情報コントロールの新たな手段となってしまっては、取材の自由を奪い受け手のアクセス権を損なうことになり逆効果だ。しかし実際は、「記者会見」を巡って深刻な問題が生じている。
 

提訴会見を提訴

 その1つは、裁判を始める時の提訴会見で起きている。訴訟を起こされたことを快く思わない被告側が、裁判を起こした者(原告)、代理人である弁護士、報じたメディアや記者個人を、名誉毀損(きそん)で逆に訴えるのだ。過去にも、解雇された者や労働組合の不当性を訴えたビラや示威行動(例えば、社長宅前での抗議活動)が、名誉毀損や侮辱に当たるとして訴えられ、大衆表現に対する封じ込めだとして問題になっていた。

 その発展系ともいえるのが、社内でのパワハラを裁判に訴えた際に記者会見を行った場合、その内容が名誉毀損に当たるなどとして訴えられる事例だ。もちろん、提訴の事実(裁判所に提出した書状の中身)を伝える分には問題ないわけだが、当事者としてどうしても訴訟に関係する周辺事情や裁判に至る思いを吐露する場合がある。むしろ、取材する記者はそれを聞くことで、事件の全体像をより深く理解することにもなるわけだ。

 しかし裁判所は、もともとの裁判で争っているパワハラの事実関係が認められなかった場合などではとりわけ、会見時発言についても真実であることが立証されていないとして名誉毀損を認めることが少なくない。さらには、同席した弁護士にも同様の賠償責任を負わせる事案も出ているとされる。この裁判所の判断の前提は、記者会見もネット書き込みも同じレベルの表現活動と認識し、みんなの前で社会的評価を低下させる行為として名誉毀損を認めるという構図だ。しかしこれはジャーナリズム活動を否定することにつながる。
 

スラップ訴訟

 あくまでも報道機関は、取材内容をチェックして真実に足りうると判断した結果をもって報道するのであって、会見内容をそのまま報じているわけではないからだ。フェイズは異なるが、警察や検察が記者発表と報道を同列と考えて、報道を抑えるために発表をしない、という最近の行政機関の傾向とも似ているものがある。こうした特定の側の情報の蛇口をしめる行為は、結果として偏った情報だけが社会に流布されることになりかねない。

 しかも、報じるメディアを訴えることは、いわゆるスラップ訴訟と呼ばれる嫌がらせ行為そのものにもなりうる(SLAPの語源は平手打ち)。一般に報道をした当該メディアは、その事案に問題意識を持っていることがうかがわれ、被告からしてみると問題視されること自体を避けたいという感情が芽生えるのは不思議ではない。だからといって、口封じともいえる恫喝(どうかつ)が許されてよいはずはない。

 とりわけフリーのジャーナリストや規模が大きくないメディアにとっては、訴訟を起こされることは時間や労力をとられ、さらには経費もかさむことから取材報道活動の大きな支障となり死活問題だ。さらに、こうして訴えられることは「伝播(でんぱ)」する。本人も将来の取材活動を抑えざるを得ないかもしれないし、ほかのジャーナリストも筆を抑えることがないとは言えない、いわゆる忖度(そんたく)や萎縮が生まれるということだ。裁判所も、意図的な嫌がらせ訴訟については一定の歯止めをかけるに至ってはいるものの、同種の訴訟が後を絶たないのが実態だ。

 もちろん、弁護士代理人も同じで、こんな面倒くさいことになるなら会見を開くのはやめようと思うのが人間の性(さが)であろうし、これがきっかけとなって懲戒請求が起こされ職を失う危険と直面することになる。すでに民事訴訟法の改正で裁判資料をむやみに記者に見せることもできない状況の中で、さらに会見をすることで、わざわざリスクを負いたくないと思うのは自然だ。しかしそれは市民社会が裁判の実相を知る機会を一つ減らすことでもある。
 

オウンドメディア

 一見、自由の拡大にみえる自社メディアによる直接情報発信をよしとする風潮も、これと通じるものがある。企業であれば従来は、宣伝は主としてマス媒体を使ってお金をかけて自社のサービスや商品をPRする行為を指し、広報は記者会見やプレスリリースという文書形式で、これまた主としてマス媒体に報道してほしい内容を公式発表することが常だった。しかしいまや、これら双方の機能を兼ね備えた形で、企業がネット上でオウンドメディアと呼ばれたりする独自のメディア展開をすることが珍しくない。

 結果として企業としては、より迅速に自分たちが言いたいことを、ストレートにユーザーに届けることができるわけで、悪い話であるはずはない。受け手の側も、場合によっては企業の本音が聞けたりして、距離感も縮まり入手できる情報量も増えるなどよいことずくめにみえる。

 しかしこうした「会見飛ばし」ともいうべき状況は、質疑応答によって異なる見え方を確認し、多面的な報道につなげるという機会を奪い、発信者側の一方的な解釈による情報のみが流れやすい情報環境を生む。とりわけ政府や大企業は、聞かれたくないことも含め質問を受け答える社会的義務がある。さらにいえば、記者会見とは社会に対する開かれた窓であって、弱い立場の者が隠された社会課題を多くの人に関心を持ってもらうきっかけにもなりうる。

 こうしたジャーナリズム活動をスキップした情報の流れは、結果として送り手にとって好ましい情報だけが世の中を席巻することにつながりかねず、それはフィルターバブルと呼ばれた自分にとって心地よい情報のみに囲まれることに馴(な)れたSNS時代の特性にも通ずる。しかしジャーナリズムとは、報じられる側にとって「都合の悪い情報」を報ずることに価値がある。情報提供の自由が確保され、私たちにとって知識や情報を受け求め伝えるための権利が保障されている場が、社会に確保されていることが大切だ。

(専修大学教授・言論法)


 本連載の過去の記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。