prime

地元愛は格好いい アーティスト・起業家 Awichさん


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
今後の夢などを語るAwichさん=2013年2月

 14歳でヒップホップに魅了され、沖縄における女性ラッパーのはしりとして活動してきたAwichさん(26)。英語と沖縄口(うちなーぐち)を操る強気なMCスタイルでクラブシーンの新星として期待を集めつつ、2006年に大学進学を期して米国に留学。音楽活動と大学生活を両立させながら、さらに米国で出会った男性と結婚し一人娘を出産。そして銃弾に倒れた夫との死別。米国社会の光と陰を目の当たりにした。帰沖後、アーティストだけでなく起業家としての活動をスタートさせたAwichさんに話を聞いた。

―ラップを始めたのは。

 「14歳のころに2Pacを知ってヒップホップに目覚めた。当時沖縄で活躍していたDJのヒンガーヒガさんのイベントで使ってもらったり、CDに参加したりした。高校を卒業してスパイスレコードと契約したけど、レーベルは東京に出て活動することを求めていた。だけど自分は沖縄か米国という選択しか頭になかったし、大学に進んで勉強したいという気持ちが強かった。それでビジネスを学びに米国に渡ることを決めた」

―米国での生活は。

 「大学は厳しいクラスで、起業家を探してインタビューをしたり、実際に事業計画書を作って銀行に持っていき『融資拒否』のレターをもらってくるという課題もあった。『融資を受けたらどうするのか?』と学生が聞いたら、先生は『銀行が融資してくれるんだったら私の指導はいらないだろ。もう大学には来なくていいよ』って(笑)」

 「音楽活動は日本のレーベルとアルバム契約して、年に数回行き来してレコーディングや撮影をした。米国でも地元のイベントに呼ばれてパフォーマンスをした。英語が下手なアジア人と軽く見ている観客にコアなところを突いた詩を放つ。そのギャップに驚いた観客のリアクションで場の雰囲気が高まるのが最高だった」

―米国で結婚もした。

 「在学中に結婚して、娘も産んだ。子育ても勉強も本当に一生懸命やった。でも米国のストリートで育ってきた夫とは育ちも文化も違い、次第に食い違いが出てきた。私は大学で学位を取りパーティーにも出て交友を広げて前に進んでいるのに、あんたはいつまでも同じところにとどまっているじゃないかと、夫を虫けら扱いしてののしったりもした。本当にあの時は感謝の気持ちを忘れて、心が冷たくなっていた」

 「大学を卒業する頃に東京で就職活動をした。仕事が決まれば、家族を日本に連れてきて新しく生活をやり直せるという気持ちがあった。そこへ米国の義母から『あんたの旦那が撃たれた!』って取り乱して電話が掛かってきた。私には隠していたけど、夫は悪い仲間とつるんで事件に巻き込まれて殺されてしまった。外資系企業から内定をもらったけど、もう心境が違った。人生って短い、今やりたいことを死に物狂いでやろうと、沖縄に戻り起業した」

―沖縄でやりたいこと、沖縄へのこだわりとは。

 「沖縄に抽象的な価値を付けられる人、シンボリック・キャピタル(象徴資本)を増やしたい。そういうタレントを持った人が増えることで、その人の着ている服や訪れた場所が注目され、地域を光らせることができる。それが沖縄のものづくり産業の経済基盤へと結びつく。私はそのためのプラットホームをつくっていきたい。人も文化も経済もすべてはつながっているというのを、マーケティングを通して実現させたい」

 「ヒップホップをやってきたからこそ、自分たちが育った土地を代表する気持ち、地元を愛することがいかに格好いいかを知っている。沖縄は戦争で何もないところから力強く復興した。先人たちの持っていたパワーを私自身も実践してきたい」

<プロフィル>

 エーウィッチ 1986年、那覇市生まれ。本名・浦崎亜希子。Awichは「Asian Wish Child(アジアの希望の子)」からつけた。県産映画「琉球カウボーイ、よろしくございます。」(2007年)の主題歌「サルー」を歌う。11年に米インディアナポリス大でマーケティングと起業学の学士号を取得。夫の死により、11年に娘とともに帰沖。自らバイリンガルマーケティング会社「CIPHER CITY」を設立し、音楽関連のイベント企画ほかデザイン、映像制作、翻訳・通訳業などを手掛ける。