女子バスケのレジェンド、沖縄W杯に感慨 アジア最優秀選手、世界選手権2度出場 那覇市の野崎たけ子さん


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バスケットボール女子元全日本代表の野崎たけ子さん=10日、那覇市首里(又吉康秀撮影)

 沖縄県勢で初めてバスケットボールの世界選手権出場や、実業団入りを果たした野崎(旧姓・新垣)たけ子さん(77)=那覇市=が1971年の現役引退後、新聞やテレビを含むマスメディアで紹介されたのは約半世紀ぶり。世界選手権に2度出場し、アジア選手権で優勝して最優秀選手に選出された“レジェンド”だ。実業団の勧銀では日本リーグで3年連続で得点王、4年連続でベスト5に輝いた。ワールドカップの沖縄開催に「あの頃は世界を見るのが喜びだった。世界の選手が沖縄に来るなんて信じられない」と感慨深げに語る。

 1946年生まれ。与那原町出身。「ハーフ」であることを理由に幼い頃にいじめを受けることがあったという。与那原中学校時代、海辺に座ってぼーっと遠くを眺めることが多かった。「外の世界を見たい」。その願いを日本代表になることでかなえた。

 知念高校1年の時に175センチの身長を見込まれてバスケ部に勧誘された。当時は体力が続かなかったため、野崎さんが得点を重ねてはベンチに戻る作戦で、2年の62年から県高校総体で2連覇を果たした。全国総体で愛知の名門・安城女子短大の目にとまってスカウトされた。

 安城で最初に見た光景は、体育館で先輩たちが頭から湯気を出してバスケをする様子。朝昼晩と練習に明け暮れる「地獄の日々」が待っていた。1年の夏休み、たまらずに荷物をまとめて帰郷した。ここで支えとなったのは外の世界への憧れだ。「沖縄は自分の居場所ではない」。すでに夏休みは過ぎていたが、学校に戻ると練習にのめり込んだ。

 めきめきと実力を付け、2年時に全国学生選手権の6連覇に貢献した。全日本選手権では学生として初めて、強豪の実業団チームを破る快挙を成し遂げた。これをきっかけに実業団の勧銀から誘われ、世界への道が開かれた。
 (古川峻)


猛特訓重ねアジアMVP 海外選手のプレーに刺激

県勢で初めて日本代表に選ばれ、アジア選手権では最優秀選手に選出された県バスケ界の“レジェンド”野崎たけ子さん=1966年

 野崎たけ子さんが初めてバスケットボールの国際大会に出場したのは1966年、韓国で開かれた朴正煕杯争奪選手権だ。この時、のちにFIBA殿堂入りするパク・シンジャのプレーに魅了された。「ロングシュートもポストプレーもできた。この人みたいになりたいと初めて思った」と刺激を受けた。それからの野崎さんは日本のエースと呼ぶにふさわしい成長ぶりを見せる。

 実業団に入った66年、当時2部の勧銀を安城女子短大の先輩とのダブルエースで優勝に導き、日本代表のメンバー入りするようになった。翌年から始まった日本リーグでは3年連続で得点王、4年連続でベスト5に選ばれている。

 成長の背景には、男子と一緒に練習して当たり負けしない強さを身に付けたことや、67年の世界選手権と東京ユニバーシアードの代表合宿の猛特訓があった。体育館に缶詰めになって水も飲まず8時間もぶっ通しで練習した。野崎さんは「根性主義は賛成できないけど、とにかく負けん気がついた」と振り返る。

現役時代を振り返る野崎たけ子さん=10日、那覇市首里(又吉康秀撮影)

 集大成は70年、マレーシアで開かれた第3回アジア選手権だ。2大会連続で決勝で敗れていた宿敵、韓国と再び決勝で相まみえ、10回も同点になる接戦の末に58―55で勝利。野崎さんは体の強さを生かしたポストプレーやシューターの能力を発揮し、最優秀選手に選ばれた。「がむしゃらにやってたら勝っちゃった。韓国は大泣きしてた」と回想する。

 「ハーフ」であることや、与那原中時代に急激に身長が伸びたことを悩んだ時もあったという。世界の屈強な選手と対峙(たいじ)したり、世界情勢の動静を肌で感じたりすることで「私は普通なんだと思えるようになった。広い世界を知ってよかった」と振り返る。

 世界を見て回ることで“普通”では味わえない経験もした。韓国では大統領官邸に招待され、朴正煕大統領から「君と僕とどちらの身長が高いのだろう」と、流ちょうな日本語で話しかけられた。戦前の日本語教育の影響を実感したという。台湾で開催されたアジア選手権の時は、蒋介石の妻・宋美齢の別荘に案内された。宋は英語で熱心にスピーチしており「威風堂々とした女性だった」と懐かしむ。

 71年の引退後は勧銀のコーチを経て海外にしばらく移り住んだ。その間、沖縄からは稲嶺(旧姓・金城)啓美さんなど野崎さんの後に続く代表選手が誕生した。そして、バスケのワールドカップが沖縄で開催されるまでになった。「私の時代は体育館もなく技術的にも遅れていたが、沖縄アリーナというすばらしい建物ができた。先輩の時から沖縄はバスケへの情熱は強かった。今も続いていると思うとうれしい」と沖縄バスケ界の成長を喜んだ。
 (古川峻)