<未来に伝える沖縄戦>「親に孝行、国に忠実」と教育 父は病気、幼い妹を背負い避難


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 名護町大兼久(現名護市大東)で生まれ育った宮城郁子さん(85)=名護市=は、7歳の頃に沖縄戦を体験しました。宮城さんは戦時中、幼い妹たちの世話をしながら家族とともに名護の山奥に身を潜め、戦闘終了後も山中で避難を続けました。屋部中学校3年の古蔵こはるさん、岸本朝咲子さん、2年の皿谷多愛さんが体験を聞きました。

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子ども時代に体験した沖縄戦について語る宮城郁子さん=7月19日、名護市の屋部中学校(ジャン松元撮影)

 《7人兄弟の3番目として生まれた宮城さんは、1944年4月に東江国民学校に入学します。戦前は3人の妹の世話をしながら、体の不自由な父に代わって家の手伝いなどをしながら過ごしていました》

 私が生まれた時にはすでに父の体は不自由で、手がいつも震えていました。具体的な病名は分かりませんが、その後に震えが徐々に広がっていったので、パーキンソン病だったのではと思います。父は昔、県外か台湾あたりで騎馬隊をしていて、とても優秀だったと母がいつも自慢していました。戦前は何を収入源にしていたのか分からないのですが、父の分まで母が一生懸命に働いて、私たちを養ってくれました。

 貧乏だったのでランドセルは買えませんでしたが、毎日ひんぷんガジュマルの前を通って元気に学校に通っていました。小学校では「親に孝行、国に忠実」と教育を受け、親孝行しなさい、兵隊さんありがとう、と教わっていました。家の前にはフクギ並木が連なり、そこから水が流れていたので、近所の友達とよく川遊びをしました。

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 《1944年10月10日の10・10空襲では、名護の日本軍陣地や名護湾にあった船舶も攻撃されます。宮城さんは小さい妹たちをおぶって山に避難します》

 飛行機からパラパラと音がしたのを覚えています。父は3歳の妹をおんぶして、母は必要な荷物を、一番上の姉が生まれたばかりの双子の妹を、私はもう片方の双子の妹をおぶって逃げました。集落の人々は皆健康で逃げるのが早く、体の不自由な父や幼い妹たちを抱える私たちは最後になりました。私と同じ小学校1年生の子はおぶられて逃げたと聞きますが、私は7歳という幼さで、妹をおんぶし荷物まで持って逃げました。その後、空襲が落ち着いたので、いったん家に帰りました。

※続きは8月18日付紙面をご覧ください。