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「空襲がある」うわさ広がる 渡口輝雄さんの体験(1) 兄の戦争<読者と刻む沖縄戦>


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又吉 永子さん

 那覇市長田にお住まいの又吉永子さん(82)から、昨年他界した兄の渡口輝雄さんの戦争体験記が届きました。渡口さんは生前、自身の体験を書き残していました。

 又吉さんは、兄の体験記にこう書き添えました。

 《「沖縄要塞(ようさい)化顕著に」。新聞から目に飛び込んできたその文字で、昨年92歳で亡くなった実兄の覚書を思い出しました。戦争当時の状況が記されています。目を通すと、終戦後の年月を魂に深く刻み込みながらの人生だったのかと思いつつ、筆を執りました。》

 又吉さんのお話を交えながら、渡口さんの沖縄戦体験を紹介します。

      ◇

 渡口輝雄さんは1930年3月、東京で生まれました。両親は粟国村の出身です。沖縄に引き揚げた後の41年6月、那覇市で又吉永子さんが生まれます。

 調理人で軍隊経験があった父の健次郎さんは、家族と那覇市西本町(現在の那覇市西)の食堂で働いていました。

 西本町は当時の那覇の繁華街です。寄留商人が営む商店、金融機関、映画館、新聞社が集まっていました。「店には内地の方々も来て、けっこうにぎわっていました」と永子さんは語ります。

 44年7月、サイパンの日本軍が壊滅します。沖縄が戦場となる可能性が高まりました。政府は沖縄や奄美の女性や子ども、お年寄りの疎開を決定します。10月には10・10空襲で那覇が焼けました。渡口さんは次のように書き残しました。

 《昭和19年8月ごろ、急に米軍から空襲が近々あるとのうわさが聞かれた。10月10日には早朝から本島中南部が大空襲になった。》