有料

馬車でやんばるに避難 渡口輝雄さんの体験(2) 兄の戦争<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
現在の那覇市西

 那覇市西本町にあった又吉永子さん(82)=那覇市=や兄の渡口輝雄さんが暮らしていた家、父健次郎さんが働いていた食堂が1944年10月の10・10空襲で被災したのか、渡口さんの体験記にはありません。日本軍記録「一〇一〇空襲戦闘詳報」によると西本町は壊滅状態となります。

 米軍が沖縄本島に上陸する直前の45年3月末、一家は馬車で本島北部に避難しました。米軍の艦砲射撃の中、家族はやんばるの山中を転々とします。

 《機銃掃射と艦砲射撃が始まり、家族7人はやんばるへ避難します。途中、金武の洞窟や古知屋の洞窟、二見、瀬嵩、東村有銘、嘉陽と逃げた。》

 家族7人とは両親ときょうだいたちです。砲撃と炎に追われる中での逃避行でした。渡口さんは書き残しています。

 《照明弾や艦砲射撃と火の中をくぐりながら、時には馬車に乗せた3歳の永子を残し、橋の下に逃げました。自分の身を守ることで必死でした。》

 輝雄さんは妹を放置して逃げたことが忘れられなかったのでしょう。その時のことを永子さんはかすかに覚えています。

 「馬車に乗っていたら、音とともに、みんなが急にいなくなった。そういうことが2、3回ありました。余裕がなかったんですね」

 一家は6月上旬、久志村(現名護市)に米軍が設けた収容地区の周辺にいました。