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ごみ捨て場で食料探し 渡口輝雄さんの体験(3) 兄の戦争<読者と刻む沖縄戦>


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名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ

 1945年の6月下旬、又吉永子さん(82)=那覇市=と兄の渡口輝雄さんら家族7人は久志村(現名護市)にいました。久志村の東海岸には米軍の収容地区が置かれ、そこで米兵に捕らわれたようです。

 その時のことを輝雄さんの体験記はこう記します。

 《6月20日ごろの朝、米軍機(トンボ)から戦争終了のビラがまかれた。辺野古の海に向かう途中、集落に近づくに連れ、煙の臭いや鍛冶屋の音、車両の音がし、そのとき戦争は終わったのだと実感した。》

 米軍に捕らわれた住民が、収容地区で戦後の営みを始めていたことを輝雄さんは知ります。父の健次郎さんは一時、家族と切り離されました。「父だけが米軍の捕虜となり、約2週間ほどキャンプに連れて行かれた」と輝雄さんは書きます。

 家族は食料不足に悩まされたようです。長男だった輝雄さんは食料探しに駆け回ります。

 《名護近くの軍のごみ捨て場で食品や菓子などが捨てられていた。14、15人の人が取り合って中には入れなかった。車上の米兵が僕らを呼んで、缶詰1ケースと他の食料をもらった。

 その時、米兵は自分の時計を見せて「明日10時に来なさい」と約束した。そして、1週間ほど食料をもらった。》

 輝雄さんが顔見知りとなった米兵から受け取った食料で家族は飢えをしのぎました。米兵との関係はしばらく続きます。