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進む日本軍の駐屯 与那覇カヅさん(1) 台湾への疎開<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
現在の宮古島市立上野小学校の校門

 那覇市にお住まいの与那覇カヅさん(87)から台湾疎開の体験記が寄せられました。与那覇さんは現在の宮古島市上野野原の出身です。沖縄戦前の1944年、家族と共に台湾北部に疎開しました。

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 与那覇さんは1935年11月、下地村野原(48年に分村し上野村野原、現宮古島市上野野原)で生まれました。8人きょうだいの5番目です。

 一家はサトウキビ、イモ、大豆、アワ、麦などを作る農家でした。新里国民学校(現上野小学校)で学ぶ与那覇さんも兄姉と共に畑仕事を手伝いました。

 「学校から家に戻ると、テーブルの上に『どこどこの畑に来なさい』という書き置きがありました。それを読み農具を持って畑に向かうのです」

 与那覇さんが小学校低学年の頃までは戦争を感じることはなかったと言います。

 宮古島で日本軍の飛行場建設が始まったのは43年9月です。平良町(現宮古島市)東部の3集落の土地を接収し、海軍飛行場の建設が始まります。44年5月以降、下地村野原では陸軍中飛行場、下地村与那覇では陸軍西飛行場の工事が進み、突貫工事で10月に完成します。

 44年7月以降、日本軍の駐屯が進みます。3万人余の兵力が置かれ、島全域が「軍事要塞(ようさい)」となります。野原には中飛行場戦闘指揮所が置かれ、多くの畑が日本軍に接収されました。野原の雰囲気は変わっていきました。