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家族6人で宮古離れる 与那覇カヅさん(2) 台湾への疎開 <読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
宮古島市上野野原に広がるサトウキビ畑

 1944年7月、絶対国防圏の一角にあったサイパンの日本軍が壊滅します。日本政府は沖縄や奄美にいる女性やお年寄り、子どもたちの九州、台湾疎開を決定します。

 下地村野原(現宮古島市上野野原)で家族と共に暮らしていた与那覇カヅさん(87)=那覇市=は台湾に疎開します。与那覇さんは新里国民学校(現上野小学校)の3年生になっていました。

 《戦争が激しくなると、国が準備した船で台湾に疎開しました。家族は両親、姉弟合わせて10人。そのうち父、長姉、長兄は家と農作物を守るため、6歳の弟は発熱のため島に残ることになりました。母、次兄、次姉、私、妹、末っ子の弟と、近くに住んでいた親族と一緒に台湾に行きました。》

 与那覇さん家族に台湾疎開の話を持ちかけたのは叔父に当たる人でした。「戦争が激しくなるといううわさが出て、母の妹の夫が『台湾に疎開しよう』と誘ってくれました」と語ります。

 一緒に疎開したのは親戚の2家族、知人1家族の計4家族20人余です。台湾に疎開した頃は「寒い時期ではなかった」と与那覇さんは話します。

 宮古島から台湾への疎開は44年8月から9月にかけて実施されました。「平良市史」第1巻は「町内会、部落会を中心に班を編成し、木造の軍輸送船、徴用された漁船で船団を組み、潜水艦や艦載機の襲撃に脅(おび)えながら台湾へ疎開した」と記しています。