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「内地」の子に引け目 与那覇カヅさん(3) 台湾への疎開<読者と刻む沖縄戦>


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 下地村野原(現宮古島市上野野原)から台湾に疎開した与那覇カヅさん(87)=那覇市=の一家は他の3家族と共に台湾北部の「台北州」の新荘郡で暮らします。「台北州」は日本統治時代の行政区分です。

 4家族は台湾の児童が通っていた学校の教室を区切って共同生活を送りました。

 《住所は台北州新荘郡にある学校の教室です。一つの教室に4世帯が間借りしていました。薄い壁みたいなものはありましたが、材料は分かりません。透けていました。竹の床にござを敷いて暮らしました。》

 与那覇さんは新荘郡の日本人学校・新荘国民学校に通います。周りは日本本土から渡ってきた上流家庭の子弟が多く、引け目を感じたといいます。

 《学校は近くにあるこぢんまりした日本人学校に通いました。政治家や教育者の子どもたちがいました。その人たちはきれいな日本語を話せるのに、島出身の私はあまり上手に話せなかったので引け目を感じました。そのためお友達もできませんでした。

 宮古島からの疎開者は方言から抜け出せなかった人が多少いたと思います。》

 服装にも差がありました。

 「内地から台湾に入ってきた人たちの子と、私たち疎開者の子は着るものも違いました。内地の子はいいものを着ていました。私たち農家の収入は知れている。いい服はありません」と与那覇さんは語ります。