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わずかな食事で飢えしのぐ 与那覇カヅさん(4) 台湾への疎開<読者と刻む沖縄戦>


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 下地村野原(現宮古島市上野野原)から台湾に疎開した与那覇カヅさん(87)=那覇市=の一家ら疎開者が最も苦労したのは食事でした。台湾で暮らした1年間、与那覇さんは貧しい食事に耐えました。

 《宮古島での生活も貧しかったのですが、台湾ではさらに貧しく、食事はほとんどボロボロジューシーでした。

 台湾人が畑でキャベツを収穫する時に地面に落ちた下葉を拾い、それをジューシーに入れて食べました。》

 川へ行ってドジョウやシジミを捕ったこともありました。「食生活は本当に貧しかった。ボロボロジューシーといっても、お米はわずか。よく生き延びることができたと思います」と与那覇さんは語ります。

 お金にも苦労しました。持ってきたわずかなお金を使い果たしていました。宮古に残っていた父は台湾に向かうという知人の日本兵を信用して生活費を託しましたが、台湾の家族に届くことはありませんでした。

 1945年8月15日、日本は戦争に敗れます。その後、台湾の子どもたちの態度が変わったことは忘れられません。

 《戦争に負けると、台湾人の一人の男の子がゴムに石を挟んで「琉球わー」と言って、人目がけて打ってきたので、逃げて隠れました。「琉球わー」の言葉の意味も分からず、怖かったです。》

 このような出来事があり、与那覇さんは外出を控えるようになります。