サイパンで別れた妹探す 金城敏子さん 県内で“似た人”


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生き別れた妹の悦子さんを思い「再会できるなら思い切り抱き締めたい」と話す金城敏子さん=23日、西原町

 南洋群島のサイパンで太平洋戦争を体験した西原町の保育園長、金城敏子さん(81)が、同地の収容所で1944年に生き別れた当時1歳の妹悦子さんを捜している。保育園や幼稚園で働いてきた金城さんは最近約20年間で3度ほど、知らない人に「中学校で先生をしていましたか」と声を掛けられた。「妹と間違われたのかも」との思いが湧き起こったという。

 金城さんは「妹は亡くなったと思っていたが、サイパンから孤児として引き揚げ、誰かに引き取られて別の名前で暮らしているかもしれない。再会できるなら今まで捜せなかったことを謝り、父母に代わって71年間分、思い切り抱き締めたい」と語り、金城さんに似た人などに関する情報の提供を呼び掛けている。
 金城さんは5人きょうだいの一番上。サイパンで山間部を約1年間も転々とし、父母と弟の計3人を亡くした。栄養失調に陥ったが一命を取り留め、別行動だった弟、妹と収容所で再会。その時、末の妹悦子さんは米兵が孤児院に連れていったと聞いた。1年余りの収容所生活では移動が制限され、悦子さんを捜せなかった。
 米軍船で沖縄に引き揚げたきょうだいは名護市の親類に預けられた。戦後も悦子さんの行方は分からず、戸籍上は亡くなったことになっている。
 二十数年前、教会で初めて会う人に「妹さんは先生をしていますか」と聞かれた。同じころ、那覇市の商店街で若い女性2人が駆け寄って「名護中学校で国語を教えていましたよね」と声を掛けた。「他人の空似だろう」と思ったが、約2年前にも那覇市首里のスーパーで「神原中で教えていましたか」と尋ねられた。
 名護中、神原中を訪ね、声を掛けてきた人が中学生だったと思われる時期の写真を見せてもらったが、妹に似た人は見つけられなかった。
 金城さんは「戦争はきょうだいでも話題にできなかったつらい過去。でも悔いを残したまま一生を終えたくはない。もし妹が沖縄に無事に引き揚げ、親切な人に引き取られて教師にまで育ててもらったのなら養父母にも感謝の気持ちを伝えたい」と語った。(宮城隆尋)
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英文へ→Toshiko Kinjo looking for her sister separated in Saipan during war