「冬銀河地下に眠れる遺骨あり」 澤田さん、本紙「平和のうた」投句


この記事を書いた人 新里 哲
「地下に眠る沖縄戦犠牲者は慰霊されていない」と語る澤田清さん=那覇市首里平良町の澤田英語学院

 本紙連載「平和のうた」に俳句「冬銀河(ふゆぎんが)地下に眠れる遺骨あり」を投句した澤聖紫(さわせいし)(本名・澤田清)さん(71)=西原町。沖縄戦の犠牲者は、どこでどう亡くなったか不明の上、今も見つかっていない遺骨は多い。「非常に深い思いをもたらす季語」である「冬銀河」を用いた。「銀河の中で最も美しい、冬のさえわたった銀河の輝きは人の心を慰める平和の象徴だ」。しかし「地下の人々のみ霊は癒やされていない」と言う。今年3月に98歳で亡くなった母・美代子さんが沖縄戦で負った心的外傷に触れながら、「沖縄はまだ平和ではない。安らぎと平和が来てほしい」との思いを込めた。

 米軍が沖縄本島に上陸した1945年4月、生後5カ月の乳飲み子だった。米軍の艦砲射撃が激しくなり始めたころ、美代子さんは清さんを抱いて本部町の壕に隠れた。そこへ、銃剣を持った日本兵数人が入ってきた。泣いたり笑ったりする清さんを見て日本兵はこう言った。
 「この子は外に出せ。米軍に気付かれる」
 理不尽な要求に対し「ここは自分たちが掘った壕だ」と壕内の住民が口々に主張すると、日本兵は怒り「出ていかないと殺すぞ」と清さんの口をふさごうとした。驚いた美代子さんは清さんを抱き締め、砲弾が降る壕の外へ飛び出した。幸い、他の壕にたどり着けた。しかしそこでも悲劇が待っていた。米軍に見つかり整列させられた住民の中に美代子さんのおじもいた。軍服に似た色の服を着ていたので、目の前で米兵に銃殺された。
 美代子さんは戦後、物心ついた清さんに「清は日本兵に殺されると思った。胸が張り裂けそうだった」と涙を流しながら体験を話したという。清さんは「母はトラウマ(心的外傷)で苦しんだ」と言う。2人が戦場をさまよっていたころ、清さんの父敬公(たかひろ)さん(故人)は徴兵され、伊江島で激戦を体験。生き残れたが、足に銃弾を受けた。
 清さんは沖縄戦で祖父を亡くし、平和の礎に刻銘されている。しかし、どこでどんな死に方をしたかは不明だ。遺骨も見つかっていない。沖縄に多い、そうした死者への慰霊に思いをはせて句を詠んだ。
 現在、約400人が学ぶ英語塾を経営する。国連機関の沖縄誘致にも取り組んだ。「本当の平和」を願い、国際的に通用する人材の育成に、沖縄の将来を託している。(新垣毅)