《ガマに避難していた宮里平信さん(84)らは、米兵に見つかり、死ぬ覚悟でガマを出ることになります。ガマから出ると海岸には信じられない光景が広がっていました》
赤ちゃんをおんぶしていた母親が、その子の口をふさいで泣き声はやみました。それから10分か20分たった後、米兵が「出てこーい」「殺しはしない」と呼び掛けてきました。みんな震えながら抱き合っていました。電灯を持った米兵3人が入ってきて「日本軍はこうなっている」と言わんばかりに日の丸を踏みつけて見せたのです。
ガマの中で私の父親が「みんな出てきなさい。集まって1カ所で死のう」と呼び掛け、みんなで抱き合ってガマの外に出て行きました。外の空気を吸って、一緒に死のうと話し合っていたのです。誰もが死ぬ覚悟でした。
ガマから出ると、そこには体の大きな米兵がたくさんいました。読谷の海岸線はアメリカの軍艦で覆い尽くされ、海の部分が見えないほどでした。
《ガマから出てすぐ、死んだはずの赤ちゃんが生きていたことを知り、みんなで喜びます》
その後は歩かされ、都屋の収容所まで移動しました。ガマから出て5分、10分ほど過ぎた後、さっき死んだと思っていた赤ちゃんが突然息を吹き返して、大声で泣き出したのです。みんなで「あいえーな(まさか!)」と喜びました。母親は「みんなで一緒に死ねる」と泣いて喜んでいました。
実は、ガマの中で母親が「赤ちゃんをここに置いていこうか」と話していたのを聞いて、私の父が「どうせみんな死ぬんだから一緒に連れて行ってあげなさい」と伝えました。それで、母親は赤ちゃんをおんぶしたままガマを出たのです。結局、イングェーガマでは1人も死ぬことはなく、全員が助かりました。
※続きは4月10日付紙面をご覧ください。