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「スピード感も大事」 沖縄勢センバツ初優勝の主将・比嘉寿光さん プロで“戦力外”からブームの火付け役に


「スピード感も大事」 沖縄勢センバツ初優勝の主将・比嘉寿光さん プロで“戦力外”からブームの火付け役に 沖縄尚学高校で甲子園制覇を手にした後、プロ選手を経て現在は広島カープの球団職員としてファン層の拡大に奔走する比嘉寿光さん=2月25日、沖縄市のコザしんきんスタジアム
この記事を書いた人 Avatar photo 高江洲 洋子

 紫紺の優勝旗が海を渡り沖縄にたどり着いた。1999年4月、第71回選抜高校野球大会で沖縄尚学高校が県勢初の甲子園優勝を手にした快挙から16年。主将で遊撃手を務めた比嘉寿光さん(33)は、プロ選手を経て現在、広島東洋カープの広報と編成課長を兼務する。支える側に回り、赤いユニホームを身に付けて熱い声援を送る「カープ女子」をはじめファン層の拡大に奔走してきた。カープ人気の裏側にどのような道のりがあったのか。立役者の一人である比嘉さんに聞いた。

—早大卒業後に広島カープに選手として入団した。

「阪神の鳥谷敬(たかし)内野手が早大の同期生で、寮生活を共にし、ライバルとしても高め合いたいと思っていた。早大のグラウンドに時折スカウトが訪れるのでプロを意識するようになった。応援してくれる人もいたのでプロに入れてもらえた。03年に入団し、ずっとけがとのお付き合いだった。それ以前が順調だっただけに、逆境に苦しんだ。活躍するには体の強さが第一条件だと思った。09年に戦力外通告をされた時、『スタッフとして残らないか』と声を掛けていただいた。広報担当になったが専属は僕が初めて。一から勉強させてもらおうという気持ちでしたね」

—その後は。

「3年目ごろから、カープは他球団とどこが違って、何が足りないのかと冷静に考えられるようになった。当時、選手はファンに見られているという意識がほとんどなく、意識付けが広報の仕事と思うようになった。他球団に比べて若い選手が多く、ルックスのいい選手もいる。そこを表に出そうと考えた。取材依頼は、前田健太投手ら目立つ選手に集中する。こちらから他の若手の長所をアピールしてどんどん発信し、取材を分散させるようにした。その後、女性ファッション誌にも載せてもらえるようになった」

PL学園を延長で下して決勝進出を決め、喜びを爆発させる比嘉さん(左)=1999年4月、甲子園

—どう意識付けを。

「記事が掲載されたらその都度、選手に届けるよう心掛けた。選手は写真を見て自分を客観視する。もう少しぴしっとしようと考えるようになり、それがグラウンドに立つ時のしぐさや身だしなみにつながった。取材を受ける経験は、自分の思いをファンに伝えられる力につながる。プレーの向上にはモチベーションがすごく大事で、大観衆の中でプレーする経験は幸せなこと。ファンの力が選手を育てる要素になる。そういった意味からファンを増やしたいと考えた。広報はコミュニケーションも大切で、悩んでいる選手には声を掛けるようにしている」

—14年の主催試合の観客動員数は過去最多を更新。関東の球場でも「カープ女子」が話題になった。

「オーナーの発案で球団が新幹線代を負担し、関東の女性ファンをマツダスタジアムに招く企画を社員も一緒に考えた。(米大リーグから広島に復帰した)黒田博樹投手の『一球の重み』という言葉にちなんだTシャツもすぐに発売した。話題に応じて球団グッズを発売する。スピード感も広島のスタイル

—昨年秋から編成課長になった。次の夢は。

「全国各地でプロ野球の試合を観戦し、広島に不足しているポジションを分析し、他球団の選手を把握し、スカウトに必要な情報を提供する。指導者になる夢をずっと抱いている。子どもたちに野球を教えるか、プロでユニホームに袖を通す機会があればとも願っている。そのために日々勉強を重ね、人間的にも成長したい。今は夢に向かって進んでいる段階ですね」

文と写真・高江洲洋子

<プロフィル>
比嘉寿光(ひが・としみつ)
 1981年4月生まれ、豊見城市出身。長嶺小2年生のころ、兄の影響で野球を始める。長嶺中を経て沖縄尚学高校に進学する。甲子園には1999年の春と夏の大会の2回出場した。早稲田大学に進学し、六大学野球リーグの連続優勝に貢献し、ベストナインに2度選ばれた。小学校から大学までチームの主将を務めた経験を持つ。2004年、広島東洋カープにドラフト3位で入団する。09年に引退し、同年秋から球団職員として広報を担当する。好きな言葉は「向上心」。1女の父親。