《米軍が迫ってきていることから、夫・宣佑さんの実家がある八重瀬町屋宜原よりも南へ逃げることにした安里さんたちでしたが、道中で母のカメさんが砲弾を受けて命を失います》
逃げている道中で、私たちを砲撃が襲いました。散り散りになって逃げました。砲撃が収まって母を捜しますが、見つかりません。砲弾が当たり、長男の宣秀を抱いたまま、母は息絶えていました。
それからも右往左往するようにして砲弾が飛び交う中を逃げ惑いました。道端には死体がたくさん転がっていましたが、見向きもしません。歩いているのはけが人ばかり。そばではお母さんが倒れて亡くなっていて、子どもたちが「おっ母ーよ」と泣いていました。「今日は生き抜けるだろうか」という不安が毎日ありました。友達も死にました。私も死ぬのであろう。死ばかり考えていました。
《安里さんは南へ南へと逃げました。道行く人から「大きな洞穴がある」と聞いて入ったのが、現糸満市伊敷にある「轟の壕」でした。轟の壕は全長1キロ以上ある、東西に延びる大きな自然壕です。壕内を川が流れ、多くの住民が避難していました》
壕に入ったのは6月11日でした。壕の入り口には日本兵が、奥の方に住民が隠れていました。壕の中は汗やうみ、排泄物のにおいでものすごい悪臭でしたが、砲撃の音が聞こえないだけでも、入ってから数日は天国のような場所でした。しかし、子どもが泣くと兵隊たちが来て「子どもを泣かすな」と怒鳴り込み、銃剣を突き付けてきます。どの母親も子どもを泣かさないように必死でした。
この壕の中で長女の和子を失いました。餓死でした。生後9カ月です。ローソクの火が消えていくみたいに死にました。壕の中は暗闇で顔は見えません。私は指先を目の代わりにして、和子をなで続けました。死んだ人をおぶって逃げることはできません。お祈りをして、壕の中に置いてきました。捨ててきたようなものです。罪なことをしました。
※続きは8月28日付紙面をご覧ください。