感動をありがとう リオパラリンピック、仲里・上与那原選手インタビュー


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 リオデジャネイロ・パラリンピックが18日、閉幕した。同大会に出場した県出身の上与那原寛和(車いす陸上T52)と仲里進(車いすラグビー)の2人が同日、リオ市内で琉球新報のインタビューに応じた。念願の銅メダルを獲得した仲里は「障がいを持って生まれて良かった」と人生を振り返った。1500メートルで僅差の4位だった上与那原は沖縄からの応援に感謝しつつ「悔しさも残っている」と語った。(聞き手 稲福政俊)

「障がいのある両親に感謝」 仲里進(車いすラグビー)

誇らしげに銅メダルを掲げる仲里進=リオデジャネイロ

 ―4大会連続出場で初のメダルを獲得した。
 「これで沖縄に胸を張って帰ることができる。初出場のアテネ大会から、日本チームは少しずつ階段を上り、最高のチームになった。同じ3位決定戦で敗れ、4位に終わったロンドンから4年、個人でもチームでもメダルを目標に掲げて練習してきた。海外から監督を招いたり、選手自身もおのおのが海外へ出たり励んだ。一言では言い表せない努力を積み重ねた結果としてメダルが取れたのは、本当にうれしい」

 ―勝利の歓喜の中、エースの池崎大輔、主将の池透暢と長く抱き合って喜びを分かち合った。
 「ベテランと言うことや、前キャプテンということで、微力ながら現キャプテンの池にはアドバイスしていた。『お疲れさま、いい大会だった』と伝えた。大輔とはいろいろな思い出がある。それぞれの選手がいろんな思いを持って戦っていた」

 ―準決勝では負けてしまったが、3位決定戦は存分に力を発揮していた。
 「僕らの役目であるキー・ディフェンス(ゴール前のキーエリアを固める守備)で(ターンオバーを)2本取れた。オフェンスもつないでリズムを崩さずできた。3位決定戦は床が滑りやすくなっていた。それを利用して相手をサイドラインに追いやるタックルをしていた」

 ―自身の競技人生で、銅メダル獲得はどんな意味を持ったか。
 「言葉がないくらいうれしい。何て表現しようかいろいろ考えたが、障がいを持って生まれてきて良かったと言いたい。いろいろとつらいこともあったが、競技をすることで環境が変化し、多くの出会いがあった。この舞台に立つこともできた。障がいのある両親に、改めて感謝したい」

「沖縄からの声援、力に変えた」上与那原寛和(車いす陸上)

インタビューに応じる上与那原寛和=リオデジャネイロ

 ―3大会連続出場となるリオ大会を振り返ってどう感じているか。
 「北京のマラソンから始まり、ロンドンはトラックに転向して『幻の銅メダル』だった。今回はメダルを取ると言っていたのに、それができず悔しい。(4位だった1500メートル直後は)すがすがしさもあったが、振り返ると悔しさがある。沖縄からたくさんの声援があり、それを力に変えていた。応援がありがたかった」
 「ロンドン後は力も付いた。押し込みが強くなり、瞬時にスピードを上げられるようになった。あとは8月に新調したマシン(レーサー)にもう少し慣れる期間があったらと思う。しっかりこぐとスピードが上がるマシンなので、もっとタイムを出せるはずだ」

 ―本大会は競技場のトラックとレーサー(陸上競技用車いす)の調整が合わず、苦戦した。
 「暑さでトラックが熱を持っていた。力をしっかり伝えられるように空気圧を下げたが、こいでもこいでもトラックにつかまる感じがあった。空気圧をこれまで経験したことがないくらい下げて、ようやくしっくりいった。勉強になった」

 ―1500メートルは0・08秒差で4位だった。
 「他の選手にブロックされているのに気付くのが遅れ、前に出られなかった。外からまくろうとしたが、届かなかった。もう少しブロックに気付くのが早かったら、さっと前に出てそのまま行けたと思う」

 ―東京大会への思いは。
 「どうしてもトラックで取りたいものがある。私自身、走ることしかできないので、継続していくと思う。温かく見守ってほしい」
 「県内では若手も出てきている。一緒に練習し、今回の経験を伝えたい。東京では初出場の選手が沖縄から出ると思っている」