ハワイ収容所跡を初訪問 元捕虜の渡口、古堅さん 記憶たどる


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目を閉じ、ブランドン・イングさん(右端)の鎮魂歌に耳を傾ける(左から)高山朝光さん、古堅実吉さん、渡口彦信さん=5日、ホノウリウリ日系人収容所跡地

 【ハワイ=当銘千絵】沖縄戦で米軍の捕虜となり、ハワイへ移送された経験を持つ渡口彦信さん(90)と古堅実吉さん(87)が5日(日本時間6日)、約1年半の抑留生活を強いられたかつての捕虜収容所で、現在は米国定史跡となっているホノウリウリ日系人収容所跡地を訪れた。ハワイ日本文化センターによると、元捕虜による同地の訪問は初めて。両氏は72年前の記憶をたどりながら、「絶望」の中過ごした収容所生活や当時の思いなどを共有した。

 収容所はオアフ島中央部に位置し、160エーカーの荒地を切り開いて1943年に造られた。古堅さんによると、渓谷にあり周囲は草木がうっそうと茂っていたため、捕虜の間では「地獄谷」と称されていた。一方、渡口さんたちは赤土の土地という意味合いから「アカンチャー」と呼んでいたという。一行はハワイ日本文化センターのレス・ゴトウさんの引率の下、当時の地図と照らし合わせながら、72年前に踏み締めた大地を再び歩いて回った。

 ゴトウさんによると1940年代初頭、米軍はハワイ在住の日系人のうち、教員や地域の有力者など影響力の強い人々を選抜し、敵性国人として同地に強制収容した。戦争の激化に伴い日系人が米本国へ送られると、45年7月ごろから捕虜となった県人が続々と収容された。戦後間もなくして閉鎖されたが、その後、98年に地元テレビ局が同地を突き止めるまで、歴史の大切な一部だったにもかかわらず「忘れ去られた土地」となっていた。

 ゴトウさんは「地元の人でさえ、ほとんどが収容所の存在を知らなかった」と指摘する。その理由をつらい抑留体験を思い出したくなかったり、米軍から口外しないよう圧力をかけられたりしたため、ほとんどの元捕虜が収容所での生活を語らなかったと分析した。

 跡地では、県系4世のブランドン・イングさん(34)が異郷の地で古里を思うというテーマの「浜千鳥」を三線に合わせて歌った。当時の記憶がよみがえったという渡口さんは「歌声が胸に染みる」と感慨深げに語り、二度と戦争を起こしてはならないと訴えた。

 古堅さんは「悲しみの中、お互いが音楽を奏でることで励まし合っていた」と当時を振り返った。収容所生活の中で病気やけがにより死去し、いまだ遺骨の行方が分かっていない12人の仲間を思い出し、涙を浮かべ鎮魂の花びらをまいた。