沖縄戦で3千人余の県出身者が捕虜となり、ハワイへ連行された。大半が帰国できたが、12人が現地で無念の死を遂げた。6月4日に現地で初めて開催される慰霊祭を前に、元捕虜や遺族の思いを聞いた。
遺骨、故郷に帰したい
黄色みがかった英字の書類。1982年2月、嘉手納町で開かれた会合で、米ハワイに抑留された元捕虜、渡口彦信さん(90)=読谷村=がテーブルの上に複数枚差し出した。書類には沖縄戦で米軍の捕虜となった後、移送先のハワイで命を落とし、沖縄に帰ることがなかった捕虜の仲間12人の名が記されていた。米軍当局が作成した死亡診断書だった。渡口さんの呼び掛けで集まった遺族たちが、待ち焦がれた家族を見つけたかのように名前をなぞった。
41年12月、真珠湾攻撃を口火として、アジア太平洋戦争は始まった。米軍は45年3月末に沖縄に進攻し、焦土に変えた。
県史などによると、ハワイへ送られた県人捕虜は3千人余とみられるが、移送の理由は明らかになっていない。
抑留期間は長い人で1年半に及んだ。渡口さんもその1人で、沖縄に帰還したのは47年だった。「せっかく戦争を生き延びたのに…」。病気やけがで無念の死を遂げ、ハワイでさまよい続ける仲間の魂。その遺族の思いを考えると胸が締め付けられる。
転機は81年だった。仲間が眠るハワイの墓地を訪ねたが、埋葬地が改修され、遺骨が不明になっていることを知った。帰国後、どうにか捜し出そうとハワイの県系人の協力を得て調査を進める中で、死亡診断書を入手した。沖縄の遺族一人一人に連絡を入れ、82年2月、嘉手納町で集まった。調査はそこで終わるはずだった。
死亡した捕虜の1人、上間松栄さんの母ゴゼイさんの、すがるような言葉が忘れられない。「遺骨の行方を調べられないか。遺骨でもいい、息子を抱きしめたい」。ゴゼイさんは90歳を超えていた。「調査を続け、遺骨を沖縄に帰そう」。渡口さんは心に決めた。
遺族に誓った使命 せめて慰霊祭を
バケツは捕虜の排せつ物でいっぱいだった。こぼれないように注意を払う。渡口彦信さん(90)ははしごを上り、薄暗い船倉から甲板に出た。あらゆる体毛を刈り取られ、下着1枚さえ着けていない体に日差しが降り注ぐ。1945年7月、沖縄戦で捕虜になった渡口さんは太平洋上にいた。行き先はハワイ・オアフ島の収容所だった。
同じ境遇の捕虜数百人が20日間近く、船倉に押し込められていた。体臭、排せつ物の臭いが充満していた。「ああ、なんて空気がうまいんだ」。排せつ物の運搬係をすることで、その価値を実感できた。複数あった移送船のうち、渡口さんらが乗った船の環境は特に劣悪で、後に「地獄船」「裸船」と称された。
オアフ島ではホノウリウリ、サンドアイランドの収容所に入った。日米の開戦を告げる真珠湾攻撃があったハワイに、捕虜として上陸することになるとは夢にも思わなかった。沖縄から連行された3千人余は、終戦を敵国の領土で知ることになった。
米軍の命令で軍施設や公園などの清掃、工事現場の雑役に従事させられた。1年半の抑留生活の間、ハワイで暮らす県系人は捕虜を慰問し、物心両面で支援した。戦争が終わったからか、米軍は捕虜と県系人の接触を阻むことはしなかった。
46年12月、渡口さんは解放され、ハワイを離れる船に乗った。大勢の県系人が見送っていた。
沖縄に戻った渡口さんだったが、後ろ髪を引かれる思いは依然残ったままだ。現地で亡くなった仲間の魂がいまだにハワイでさまよっているのではないか。そう思うと、胸が痛んだ。
遺族の要望を受け、機会あるごとに厚生省(当時)や県に働き掛けた。新聞などを通して情報などを呼び掛けた。だが、決定的な手がかりがないまま、月日は無情に流れた。
今年90歳を迎え、35年前に「遺骨を見つけ出してほしい」と懇願された上間ゴゼイさんと同じ年代になった。「せめて、慰霊祭だけでも開催したい」。帰還した元捕虜の使命として、また遺族らの思いに対する責任から、そう強く思うようになった。
現地時間の6月4日、沖縄とハワイの関係者の協力を得て、初の慰霊祭を開催することが決まった。
「72年も待たせて申し訳ない。皆で会いに行くので、もう少しだけ待っててください」
ゆっくりと、思いをかみ締めるように渡口さんはつぶやいた。
(当銘千絵、島袋貞治)