食事、家畜のように 戦の教訓、後世に継承へ
学徒兵だった古堅実吉(さねよし)さん(87)=那覇市=がベルを鳴らし、起床時間を告げた。1946年、ハワイ・オアフ島の捕虜収容所。毎朝、繰り返されていた光景だ。
沖縄戦で捕虜となった県人3千人余が45年、ハワイに移送された。捕虜の年齢層は幅広く、親子以上の差があった。沖縄師範鉄血勤皇隊員だった古堅さんら学徒兵が最も若く、起床係などの雑役を担わされた。
古堅さんが米軍の移送船に乗せられ、沖縄を離れたのは45年7月3日ごろ。5日が16歳の誕生日だった。
数ある移送船のうち、古堅さんたちを乗せた船は環境が最も劣悪な「地獄船」だった。到着までの約20日間、蒸し暑い船倉に押し込められた。バケツに入った食事は1日2回。手のひらを食器代わりにした。白米を先に載せ、その上に主菜を盛り付けると汁気がこぼれずにすんだ。顔をうずめ、家畜のように食べた。
「これから奴隷として、こき使われるのか」。屈辱的な体験に、捕虜たちは絶望感を募らせていった。
同年8月15日、収容所で終戦を知った。「殺される心配はなくなった」。安堵(あんど)感はあるものの、敗戦の悔しさはなかった。沖縄に帰る日が待ち遠しかった。結局、収容所生活は1年4カ月余り続いた。
沖縄戦から72年が経過した。ハワイで亡くなった捕虜12人を弔う初の慰霊祭が6月4日、現地で開催される。当初は年齢を考え、迷いもあった。「最初で最後の機会かもしれない」。妻・芳子さん(86)の言葉が背中を押した。今回参加する元捕虜は古堅さんと、慰霊祭実行委共同代表の渡口彦信さん(90)の2人だけとなっている。
戦後、古堅さんは衆院議員などを歴任した。政界を退いた今も、名護市辺野古の新基地建設現場に足を運び、一貫して平和運動に取り組む。むごたらしい沖縄戦や屈辱的な捕虜体験が原動力となり、自らを奮い立たせる。
捕虜12人の遺骨は今も沖縄に帰っていない。「あの戦争の最大の犠牲者だ」。そう語る古堅さんの中で、日本が軍国主義の道を歩み、本土の砦(とりで)として沖縄の要塞化を進めた72年前と現代の情勢が重なる。
「基地建設が強行されているが、同じ過ちを繰り返してはいけない。一人一人の命は尊い。戦争を体験して痛感した自らの教訓を、沖縄とハワイの人々に伝えなければ」。そう心に決めている。
(当銘千絵、島袋貞治)